111番地、住宅スペース廊下にて。
「昊陽嬢ー」
「ああもう! うるさいっ!」
 語尾に、背中にハートマークを背負った男の声に、照れのような怒りのような女の声が応える。
「しかたないじゃないですか! 折角想いが実り両想いになったんですよ!? 愛しあっているんですよ!? ならばこのような愛の営みが増えるのは当然…っ」
「馬鹿みたいなこと言ってるんじゃないわよ!?」
「うるさい!」
 どたどたぎゃーぎゃーという音が、ぴたと消える。
 軽く開いたドアの奥、響く冷たい声と眼差し。
 大量の本をバックに、エゲリアは冷ややかな一瞥をおくった。

7.走る時は障害物に注意しましょう。

「…すみませんでした。エゲリア嬢」
 ひとしきりいつもの彼女らしからぬ勢いのお説教を受け、恒磋は頭を下げる。
 お説教を受けていたもう一人、昊陽は「悪かったわ」と頭を下げ、早々に立ち去った。それはもう華麗に素早く―――「仲がいいのはよろしいですが」の一言に顔を真っ赤にして。
 それが可愛いなあと見惚れ、うっかり笑顔で機能停止した恒磋を置いて、立ち去った。
 すぐさま追いたいのは山々だが、その前に謝るのが筋だ。そして、さすがにすぐうるさくはできない。
 だからこその謝罪に、エゲリアは微かに息をつく。長い前髪に隠されてなお物憂げな表情をさらす。
「まったく貴方がたは……学習能力というものがないのですか」
「愛は止められないものですから」
「そうですか」
 そうですか、どうでもいいです。そう言いたげな声に、恒磋は曖昧に笑う。
 漂う微妙な気まずさに思わず笑って―――ふう、と息をついた。
「しかし、僕達は気持を通じ合わせたんです。やっと、やっとカップルになりました。それでも彼女はまだあんなにも照れて…照れる昊陽嬢はそれは愛らしいものですが、寂しいです。彼女の顔は怒っていても華がありますが、笑うとより素晴らしいですから。
 ねえ、エゲリア嬢。どう思いますか?」
「……左様ですか」
 いつか聞いたような相槌を返して、彼女は再度息をつく。今度は、少し深く。
 僅かに俯いた所為で、恒磋は気付かなかった。ほんの少し、ほんの少しだけ、彼女の顔になにかをたくらむような色が滲んだことを。
「正式に付き合っていると言うのに、態度が変わらないのは貴方の方ではないですか」
「そんな…! 僕は今までも昊陽嬢をこれ以上なく愛してきました! しかし、日々限界に挑戦し、愛は深まるばかりです!」
 胸を張ってきっぱりと言い切る同僚に、エゲリアはしんなりと冷めた眼差しを送る。
「少しは落ち着いて、余裕を持ったらどうですか」
「余裕…ですか。…」
 余裕、ともう一度胸の中で繰り返しながら、恒磋はそっと今日を振り返る。
 朝起きて、真っ先に彼女の顔が浮かんだので、あいさつをしにいった。つい、抱きしめたりもした。殴られた。照れる昊陽嬢はとても可愛い。
 朝食を終え、朝の陽ざしがその顔を照らす様が美しいので素直にそう言ってみた。今度は蹴られた。ば、ばかっじゃないの!?投げられた言葉は焦りに満ちて、その焦りの理由を想うと幸せになった。
 昼を過ぎたつい先ほど。時間が出来たのでなにやら肩をほぐす彼女に声をかけた。疲れているのならば、とあれこれ世話を焼こうとしたら、逃げられた。ああ、いつもの愛の営みだ。実に幸せだった。
「…昊陽嬢をみていると、愛しさで胸がいっぱいになるんですよ。愛の前には余裕など溶けて消えてしまっていると言う側面はありますね」
「見ていれば分かります。呆れるほどに」
「呆れるのですね」
「呆れます。とても呆れます」
 真顔で繰り返されて、恒磋はふむと考える。
 別にそれが自分の愛情表現だ、恥じ入る気持ちなど微塵もない。
 しかし、余裕。余裕がないと呆れられる。
 それは、彼女もそうなのだろうか。
 なら―――……
 少しは余裕を持つべきだろうか。静けさを取り戻した廊下で思う彼の耳に、ドアを開ける音が届いた。
 一階の裏口を開ける音。続く足音は軽やかで、耳慣れて。それでもちっとも心臓は静まらない。
「……無理かもしれませんねえ」
 こんな小さな音さえ拾って、こんな風に心躍ってしまうのだから、そんなこと。
 ええそうでしょうね、と呟く声に背を向けて、彼は歩きだす。軽く、すばやく、笑顔で。
 とんとんと怪談を下り、先を急ぎ、ドアを開け放つ。その拍子に、勢い余ってをドアが歪んでいることにも気付かぬまま。

「昊陽嬢!」
 心底うれしげにその名を呼ぶ彼に、彼女はちらりと振り返った。
 ただし、猛烈にダッシュをかけながら。
 金の髪を日差しにきらめかせて走る姿に見惚れつつも、彼も走る。彼女に追いつけ追い越せといわんばかりに。
 そうして、追いついた彼の手は、彼女の腕をはしっと捉える。優しく、それでもしっかりと捕まえる。
「…ああやはり無理です昊陽嬢!」
「なにがよ! 何があったって言うのよ!?」
「貴女を前にこの猛る想いを止めることなど、僕には生涯できません!」
「はあ!? 止めなさいよ! 自重を覚えなさい! ああもう…むしろあのへたれを見習え!」
 捕まえるだけでは足りずに、ぎゅうっと抱きついてくる恒磋を引き離しつつ、昊陽は叫ぶ。
 愛しいひとの切実っぽい叫びに、彼は真顔で答える。
「嫌です」
 真剣な声音に、表情に、彼女は少しだけ黙りこむ。―――第三者から見れば、見惚れでもしたかのように。
「貴女に気持を伝える以上に大切なことなど、なにもありませんから」
「…馬鹿じゃないの、本当に…!」
 すぐさまいつも通りにきつい言葉を投げかける恋人に、彼はにこと笑う。
 このやり取りもまた、彼の幸せの一部なのである。
 ―――なお。
 この時、甘い時を過ごす2人を待っているのは、障害物となったドアを壊した咎による炎龍のお説教であることは、別のお話。


 そして、別の話しは、もうひとつ。


 何度も直した後の残るドアを見て、エゲリアはふと彼らを思い出した。
 やかましくて学習能力の感じない、彼らのことを。
 ぱらりとめくったページに現れたカップルが、少し彼らに似ていたからかもしれない。
「…本当に、騒がしい方々でした」
 思わず呟いてしまうほどに、騒がしかった。
 そんな彼らの残した娘は、彼らよりは物静かだ。割合本を愛していたりもするので、今のように彼女の部屋を訪れて、好きな作品を探しに来ることもある。
 どうにも怯えられているフシがあるが、静寂を好むという意味では好都合だ。
 もう、あのあわただしい鬼ごっこを見ることはない。他にも騒音の種はつきないけれど、とりあえずは。
 ぱら、とページをさらにめくる。と同時に、本棚の間から、銀髪の少女がひょこりと顔をのぞかせる。愛らしい絵が描かれた表紙を抱えた少女。銀色の髪をひと房金に染めた、女の子。
「エゲリア姉様…? 難しい顔して、どうしたの……?」
「…別に。なんでもありませんよ」
 そうなの…?と首をかしげる姿には、やはりこちらに委縮しているフシが見えるとエゲリアは思う。
 しかし、別に、構わない。
 ただ、あの二人の騒がしさはどこにいったのやら、と少しだけ感じて、
「―――秋桜殿」
 好きな殿方が出来ても、ああはならないでくださいね。
 思わずこぼれかけた言葉は、告げるほどのことではないと結論づけて、彼女はゆるく首をふった。
 そんなことを口にする必要はないし、それに。
 僕らの娘だから分かりませんよねなんて、嘯く声を聞いた気がして。
「エゲリア姉様? 私がなあに?」
「その絵本はシリーズ物の2冊目です。そう明記はしていないので分かりにくいですが。どうせなら一冊目も探すことをお勧めしましょう」
「そうなの? …ありがとうございますっ、エゲリア姉様!」
 嬉しげに踵を返す少女に「静かにしてください」とくぎを刺した後、彼女はふうと息をつく。

「……本当に、騒がしい方々」

 ぽつり、微かに呟く、どこかあたたかい声は。
 物言わぬ本たちに吸いこまれた。



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