ふわり。
 すれ違う刹那、微かな香りをかんじた。
 爽やかな甘酸っぱさを予感させる、柑橘に似た香り。
 ごみのつまれた部屋に住んでいる女とは思えない香りに、思わずふりむく。

 彼の視線に気づいたように、彼女もふりむく。
 かちりとであった瞳は、二人が出会ったころとと同じく。まんまるくてつぶら黒い瞳。
 それでもあの頃とはあまりに違う女は、小さく首をかしげた。


「なにか用?」
「別に。
 似合わない香りするなと思っただけだ」
「似合わない?」
 繰り返すトゥエルヴ顔には、少しだけ気を害したような色。
 けれど一瞬の後、まあそうかもねと呟く顔には、笑みが戻っていた。
「私の趣味じゃないもの。
 今の男が好きなのよ。うつったんじゃない?」
「へえ」
 じゃあそのうち消えそうだな、とは言わない。
 そんなことに口を出して、興味があるように思われるのが厭わしい。
 そもそも香りなど気にする必要もなかった。
 気にすることがおかしいのだと、メティーは踵を返そうとした。
「でも、そんなのいちいち気にするって。こまかい男ね」
「繊細なんじゃないか。どっかの誰かと違って」
 細かいといいながら、彼女は彼に理由を尋ねない。
 なぜわざわざそんなことを気にしたのだと、その理由を尋ねない。
 彼も彼女に理由を尋ねない。
 現在の意中の男の好む香りがうつるほど、なにをしていたのだと、などとは。今更口に出すことではない。
「どこのだれよ。遠回りね。そういうのがカッコいいと思ってるって寒いわよ」
「恰好をつけるためにいってるんじゃない。処世術だよ。
 お前みたいに色々オープンな方が珍しいんだ」
「私だっていろいろと秘めてるわよー?
 良い女は秘密が多いものなの」
 それでも、言葉は続いていく。
 ふわふわと、日常のように。続いていく。
「ますます当てはまらないじゃないか」
「あんたの目が節穴なのよ。すっかすっかね」
「目には眼球がはまってるよ。穴空いてない」
 向かい合いながらも、二人の目線はであわない。
 メティーは手にもった窓ふき用の布に、トゥエルヴは窓から空へと眼差しをそそぐ。
「いちいちうるさい男ね。心せまいったら」
「相手が悪いからだろ」
「相手を選ぶところがせまいってのよ」
 意地悪気に言い切って、彼女はくるりと踵を返す。
 歩いていく背中にかかる声はない。
 彼もまた踵を返し、中断していた掃除に向かう。
 彼女の通った場所を、さかさまに歩く。

 そこに、先ほどの残り香りはない。
 残ったものなどない。
 残ったものなど、なにも。
 ましてや閉じた瞼の裏、あの日の少女の姿がちらつくなど、そんなことは。
 すべて今更で、ありえないことだ。

 窓を拭くメティーの目に、不自然に動く草むらがうつりこむ。
 その原因の少女の姿を思い、彼は少し眼差しを和らげた。




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