その日は、朝から雨だった。
空は分厚い雲で覆われていて、明かりをつけても辺りはぼんやり薄暗く、夏も初めだというのに肌寒い。
何となく暗い気持ちになる様な、そんな日だった。
そんな日も、町外れのカフェは盛況だった。
「もう、本当商売あがったりで。店閉めてきちゃいましたよ」
笑って言うのは羽堂亜理紗。髪がほんのり湿っているのは、外を歩いてきたからだろう。
身体が冷えた為か、毛布を肩から掛けていた。
「何処も同じですねえ」
返すのは朱音。口元に微笑を浮かべながら、友人にマグカップを差し出す。
羽堂は毛布の中から手を伸ばし、クマちゃんプリントのそれ(羽堂が以前家から持ってきたもの。カフェの備品)を受け取った。鼻を近づけ、香るチョコレートを堪能して幸せそうに目を細める。
程無くして奥の厨房から、皿を持ったポコスがやってきた。皿の上には、チーズを挟んだクラッカー。姿が見えないと思っていたが、おやつを作っていたらしい。その後ろから、人数分の飲み物をトレーに乗せたエゲリアもやってくる。
「…朱音さんも朱音さんとこの子も、家にいてもカフェにいてもやること変わんないですね」
「適材適所、餅は餅屋ですよ」
少し離れた所で、読んでいた本から目を上げてかなたは言う。朱音は軽く答えた。確かに適材適所ではあるのだろうが、その言い方では好んでしているのかどうかは解らない。取り敢えず、ポコスの後ろでじいっとかなたを(というよりは本を)見詰めているエゲリアは、余り好んでやっている訳では無さそうである。
朱音家の様な、営業時間がきっちり定められている忙しい店を持つ家に飼われていることは彼女にとって不幸なことかもしれないと羽堂は思う。そうでなければいつまででも好きな時に好きなだけ本を読んでいられただろう。
朱音家の様な、営業時間がきっちり定められている忙しい店を持つ家に飼われていることは彼女にとって幸福なことにちがいないと羽堂は思う。そうでなければ彼女はいつまででも書庫から出てこず誰とも関わらずにその内本に魅入られて本の妖精にでもなってしまうことだろう。(それはそれで似合う気もするが)
…結論。やはり適材適所なのだ。色んな意味で。
「お好みでレモンを掛けてお召し上がり下さい」
ぼうっと余計なお世話にも程がある事を考えている羽堂の目の前にクラッカーの皿が置かれる。
ポコスは何故かウェイター口調だ。非公式の場なのだからそんなに丁寧にしなくてもいいのにとも思うが、癖なのだろう。自然についたものか、意図してつけているものかまでは知らないが。
エゲリアが皆に飲み物を配って回っているのを横目で確認してから、羽堂は朱音に視線を戻した。
彼女の手には、迷彩模様のマグカップ(朱音が以前家から持ってきたもの。カフェの備品)。朱音は羽堂の隣の椅子を引いてすとんと腰掛けると、先程の羽堂と同じ様に鼻を近づけ、幸せそうな顔をした。
「そういえば、今日は咲良さんはいないんですか?」
「いますよ」
『いますよ』
少女の声に、小さなくぐもった声が重なり、毛布の中から薄い灰色の龍が首を出した。寒いので籠っているらしい。
あらまあと目を丸くして、再び立ち上がって厨房へ走って行く朱音。すぐにネコちゃんプリントのマグカップ(羽堂が…以下略)と、深皿一杯の鈴カステラを持って戻ってきた。
咲良は毛布を伝って羽堂の身体を駆けあがり、肩を踏み台にして頭の上へと跳び上がる。そこから更に跳んでカフェの床に着地する頃には、既に美しい人間の少女に姿を変えていた。
身体の動作を確かめるように腕や肩を動かしている咲良に、朱音がにっこりココアとカステラを勧める。咲良は、照れと嬉しさと苦笑が綯い交ぜになった様な笑顔を見せた。
一刻、二刻と時が過ぎる。
一人、二人、と人や龍が増える。
お喋りに興じたり、積んでいた本の山を崩すべくページを捲ったり、それぞれ穏やかな時を過ごす。
そうしている内に日が傾く時刻となり、ますます空は暗くなった。
「…………」
本を読み終え、かなたは窓に歩み寄る。カーテンを開けて外を窺うが、そこにはやはり陰鬱な空があるばかりだった。
「やみそーにないですね。帰り、嫌だなあ」
来る時は『皆に会える』という餌があったからまだいいものの、帰りは足取りが重くなる。
かなたは読み終えた本の山の方(近くでエゲリアがまだ読書を続けている)を窺うと、ふー、と息を吐いた。
「その本ってどうやって持ってきたんですか?」
「え?」
「ああ、いや、この雨の中その量の本を濡らさずに持ってくるのは大変だっただろうなと」
「家で龍に本を持たせて待機させておいて、本ごと召喚したんですよ。帰りもそうするつもりです」
「なるほど、それは便利だ」
「重いもの運ぶ時とかにもいいですよ。問題は、マスターはやっぱ自力で移動しなきゃならないってことですが」
「それはまあ、仕方が無いですね」
「…………」
召喚石を使ったちょっとした裏技である。
そのまま生活便利術について語っている乾とかなたから視線を外して、今度は真夜が窓に歩み寄った。
水と風の精霊の気配は、収まるどころかどんどん強くなっていく。今夜か明日辺りには嵐になるのだろう。
庭の植木鉢を家の中に仕舞う様家の龍に連絡しておこう、と考えた。
「物語なら何かがおこりそうな雰囲気ですね〜」
「立った、フラグが立ったー」
「真夜さんがフラグを立てたぞー」
ぽつりと呟く真夜。耳聡くそれを聞いた羽堂と朱音が騒ぐ。
真夜が苦笑いしながら一同の待つテーブルに戻ろうとした瞬間、勢いをつけて扉が開いた。
吹き込んでくる風、激しい雨の音。それを背に負った男。
一同の視線が集まる。その視線の中、男はよろよろとカフェに足を踏み入れ、
「…コーラを一杯頼む」
と言って倒れた。
「ぱ、ぱちさんにコーラを!」
「ていうかタオルを!」
「その前に、えーとエゲリア、お風呂沸かしてきてください!」
「今、三十年前に生き別れた主人公とその五代前の御先祖様が二丁目のシラスに入ってる小さいエビとかタコとか専門店で出会った所なので後にしてください」
「何読んでるんだエゲリア」
「ミステリです」
「不条理系の?」
「本格派」
取り敢えず一通り大騒ぎしたものの、普通に元気でした。
「いや、なんか雰囲気からして倒れなきゃいけない気がして」
「すげー余計なサービス精神」
首にバスタオルを掛けてパッチーは言う。
羽堂は呆れた様な顔をした。
カステラを食べ終え、膝の上で丸くなっている咲良の鱗を撫でる。
咲良は幸せそうにごろごろと喉を鳴らした。横から朱音が手を出したそうな顔で見ている。
「というか、傘とかは?」
「途中で御釈迦になりました。風で」
「あいやあ、それは災難だ」
「10Gで買った逸品なのに」
「それは惜しい事をしましたね」
適当な会話をする二人。
周囲も既に先程の驚きは薄れ、それぞれ自分の時間の構築に戻っている。
そんな中ふと声を上げたのは、イソレナだった。
「気が付いたらいつの間にか全員集合してますねー」
その声に皆がそれぞれ辺りを見渡す。
そういえばそうだった。
気付けば、この会員制カフェの『いつものメンバー』が全員いる。
割と付き合いのいい集団ではあるのだが、ここまで揃うのは珍しいかもしれない。
「折角だし、皆で何かしたいかも」
「そうですね、折角だし」
珍しい状況から来る雰囲気に押され、それぞれ好きな事をしていた一同は改めて顔を突き合わせる。
取り敢えずやれそうなことを口々に言うのだが、なにぶん天気が雨で時刻が夕方、更に人数が多いのでまとまらない。
「だるまさんが転んだ」
「室内で?」
「鬼ごっこ」
「室内で?」
「缶蹴り」
「室内だっつってんでしょうが」
「これが二十超えた男女の集団が出す遊戯についての提案だろうか」
「そんなん今更じゃないですか…あ、そうだ」
羽堂がぽんと手を叩く。
そして、満面の笑顔で言った。
「きもだめしー」
表情を変えない者、露骨に眉を顰める者、笑顔が引き攣る者。
反応はそれぞれ違うが、取り敢えず興味は集まった様だ。
「肝試しですか。それはつまりあれですか、レバーの煮付け勝負とかそういうの」
「パッチーさんが現実逃避している。そうじゃなくて。
塔の近くに、なんか御屋敷あるじゃないですか」
塔、というのは例の塔であろう。サタナエルとかいう、若作りのボケ老人との説が根強い悪魔が棲む塔だ。
その塔の周辺にひとつ、古びた屋敷がある。いつから建っているのか、誰が住んでいたのかなどは解らない。取り壊そうとすると何か悪い事が起こるとかで、町も手を付けようとしない。宝探し等なら塔の方がいいものがあるとかで、わざわざそちらに行く者もいない。町に出現する魔物の根城になっているとかの説もある。
「皆でちょっと行ってみません?この人数なら、魔物とか出ても大丈夫ですし。
人間だった頃のサタナエルの家って噂ありますけど、だったらそれっぽい証拠とか残ってそうなんですよねーそうじゃないにしても、なんか面白いものとかありそうです」
「肝試しっつか。探索ですね」
「でもまあ、集団で廃屋探索っていったら肝試しかな、と思って」
そういうことなら、と話はまとまる。幽霊は怖いが魔物は平気、という人が多いのだ。
怖いものを怖がり、弱い敵を倒す。合理的といえばそうかもしれないが、変といえば変だ。
だが今この場にそれを指摘する者はいない。その場の勢いとノリで話は進む。結局『肝試し風探索』へと繰り出すことになった。
その場で決まったルールや注意事項は三点。
・乾・パッチーの「力技エクソシスト」組、羽堂・真夜の「あなたの知らない世界」組、イソレナ・かなた・朱音の「朱と青で紫になるから別にいいや」組の三組に分かれて探索。
・龍たちはカフェに残るが、マスターたちは必ず召喚石を持っていくこと。
・深追い禁物。無理はしないこと。
である。因みに組分けは籤で決めた。
「組分けよりも、誰がチーム名を決めたかの方が気になるんですが」
「紫ならなんでもいいのかいーたん。見損なったわっ」
「僕に言われても。見損なわれても」
くるくると指先で何か描く小町。
詳しい者なら、それが精霊を呼ぶ行為だと解っただろう。やがて充分な数の光の精霊が集まり、空間にふわりと光の球が浮かんだ。
日が沈んだ後、しかも雨の日なので、光の精霊も数が少なく活気が足りない。光球が七人全員に行き渡ったのは、しばらく後の事だった。
眩しいが触れられない、触っても熱くない不思議な光を、一同は自分の想いのままに操れることを確認する。
「御武運を」
「さ、行きましょう。冷えるといけない」
廃屋に挑む七人の顔を見て、ぺこりと頭を下げる小町。
付いてきていた風矢が彼女に傘を差しかける。
「ありがとうございます。お優しいですね」
「当たり前の事をしているだけですよ」
改めて一同に頭を下げると、風龍と光龍の二人は一つの傘の下寄り添い、雨の中を歩いて行った。
雨音の中漏れ聞こえる会話。カフェに戻るのかかなた邸に帰るのかは知らない。取りあえず仲がいいのは何よりだ。
「…なんかラブラブっぷりを見せつけて帰っていきましたね」
「私もう気にしない」
ハートマークのオーラが見える後ろ姿を眺めながら呟く朱音。
かなたは踵を返し、廃屋へと向き直った。
一同は事前に決めておいたチームに分かれて屋敷の中に入って行った。
ぎぃ、と軋む重い扉。予想はしていたが、中の空気は埃っぽい。
辺りには雑多に物が積み上げられている。床に落ちていた本を拾い上げて手で払うと、思った以上の埃が舞う。かなたは「くちゃん」と可愛いくしゃみをした。
「さて、手分けするとして、どうしましょうか」
「確かここって三階建てですよね。三組ですし、丁度いいのでは?」
「探したら地下室とかあるかも」
「そういうの見付けた場合はおいといて、地上が終わったあと全員で進みましょう。
見た所一階が一番規模ありそうですから、僕と朱音さんとかなたさんが一階やりますよ」
「そうですね、三人グループですし」
「じゃあ、俺と乾さんは二階で」
消去法で、羽堂と真夜は三階ということになる。特別異論を挟む理由も無い。
そして一同は床板の腐った部分を踏みぬかない様に気を付けながらも、探索を開始した。
それぞれ自分たちがいる階の探索が終わったら一度外に出て、庭に光球を投げることになった。
時々窓の外を見れば、既に探索を終わらせた組がいるのかどうか確認できるという訳である。
「もっと不気味なのを想像してましたけど、案外普通ですね」
「そうですね。普通の古いお屋敷です」
真夜と羽堂は、階段に近い方から奥に向かって、一つ一つ部屋を改めて行く事にした。
ベッドの下を覗きこんだり、本棚の本を一冊一冊改めたり。
「何かレアなもの出てきたら持って帰っていいと思います?」
「うーん、ものによるんじゃないですかー」
「あはは」
最初こそ怯えて離れない様にしていた二人だが、だんだん慣れが出て、軽口を叩く余裕も出て来た。
二、三室探索した所で、作りも家具も、本棚の中身も殆ど同じ部屋が幾つか続いていることに気付く。
さして重要では無い客の為の客室なのだろう、と二人は結論づけた。
「サタナエルの家かどうかはともかく、そこそこの身分の人が住んでたっぽいですね」
本がばらばらにならない様に気を付けながら、真夜は机の上に置いてあった本を捲る。
光球があっても暗い中の作業はやりにくいのか、目を細めていた。
「何年前くらいになるでしょう?」
クローゼットの中を確認しながら、羽堂は言う。
「本の出版年数とか見ると、ざっと百年前くらいでしょうか」
「百年ですか…」
「羽堂様にとってはそう凄い年数でもないかもしれませんね?」
「そうでもないですよ。私はまだ二十そこそこですし」
羽堂の耳が、へにゃ、と垂れた。
「あ、私、ちょっと窓の外確認してきます」
「はい、お気を付けてー」
羽堂の方を見ずに、真夜は答える。
背後の方で、ドアが開き、そして閉まる音がした。
真夜はふぅ、と息を吐き、本の確認作業を進めた。
「…まだでしたよー。どうですか?」
「わっ!」
突然耳元で声がした。
驚いて振り向くと、そこには驚いた様な顔をした羽堂がいた。
真夜はほっとしつつも苦笑する。
「もー、御無事でよかったですけど、気配なく戻ってこられたからびっくりしましたよ」
見ると、羽堂の光球は無い。こっそり近付いて驚かせる為に消したのだろうか。
全員で探索ということで人数分用意したのだが、なんでもエルフは夜目の利く種族だということだ。元々そんなものは要らなかったのだろう。
「…ごめんなさい。ちょっと驚かせようと思ったんですけど…そんなに驚かれるとは思わなくて」
羽堂は困った様に、申し訳無さそうに頭を垂れる。
彼女にしては珍しい仕草に、真夜は少し毒気を抜かれた。
しかしそれも一瞬の事で、羽堂はけろっとして顔を上げ、「それで、終わりました?」と言った。
「あ、ちょっと待って下さい。えーと…。…はい、大丈夫です」
本を元通りに戻す真夜。二人は連れ立って、隣の部屋に移った。
次の部屋も、その次の部屋も、同じ様な造りの部屋が続く。
魔物などが出てくる様子も無く、平和なものだった。
時折り窓の外を覗くも、他の組が探索を終わらせた様子は無い。
なので二人はのんびりお喋りをしながら探索を続けていた。
そのまた次の部屋も、更にまた次の部屋も…。
「なんか外から見たより広い気がしますね、この家」
「探索しながらだと特にそう思うのかもしれませんね」
羽堂と真夜は言いながら、廊下を歩く。
光球があるとはいえ、旧い屋敷の廊下は何処か不気味なものだった。
ふと、真夜の手にひやっとしたものが触れた。
見ると、亜理紗が真夜の手首にそっと手を添えている。
真夜は笑い出しそうになりながらも、その手をぎゅっと握る。羽堂はとても嬉しそうな顔をして笑った。
廊下の突き当たり。
とうとう次で最後の部屋だ。
「行きますか」
「ええ」
最後の部屋の扉を開く。
そして、言葉を失った。
てっきり最後まで客室が続くものだと思っていたのだが…最後の部屋は、書庫だった。
いや、書庫というより、図書館と言った方が正確かもしれない。
客室よりもずっと広い部屋。本がぎっしり詰まった棚が整然と並んでいる。
「これは…なんか色々見付かりそうな気もしますけど。できれば明るい時に出なおしたいです。できれば全員で」
「同感です」
呟く真夜。羽堂も頷く。
どうしよう、と顔を見合わせる。
今までの部屋では、本も一冊一冊手にとって改めていたのだが。
この部屋で同じ事をしていると、夜が明けるどころか年が明けてしまいそうな気がする。
と、いつまでも呆然としていても仕方が無い。
真夜は気を取り直し、手近にある棚の本の冊数を数えた。
「…取り敢えず、棚の数だけ数えませんか。大体一棚二十冊、本棚ひとつで百冊ってことで、凡その冊数だけでも解りますし」
「…そうしましょう」
二人で部屋の中をぐるりと一周する。
話し合って、真夜は扉側から奥を向いて右から左へ、羽堂は奥側から扉を向いて右から左へ、棚の数を数えていくことにした。
それじゃまたあとで、と言う真夜。手が離れ、羽堂はとても残念そうな顔をしながら、部屋の奥へ歩いて行った。やがて彼女の姿は見えなくなる。
真夜は埃を吸い込まない様に息を吐き、腕まくりする。先程話し合った通り、右から左へ、棚の数を数えていく。
1、2、3、4。
背表紙の文字は、読めるものもあるし読めないものもある。
5、6、7、8。
読めるものの中にも、興味をそそるタイトルもあれば、全く興味のないものもある。
9、10、11、12。
それどころか、読めるのに全く意味の解らないものもあった。
13、14、15、16。
それはそれで、少し目を通してみたい気もした。
少し視線を上げる。光球が無いので、羽堂の位置は窺えない。
だが、何も異変は無い様だ。どうやら探索は無事に終わりそうである。
真夜が安心して視線を本棚に戻した時。
「きゃっ!?」
「羽堂様!?」
エルフの叫び声が聞こえた。
弾かれた様に視線を上げる。呼びかけにも返事が無い。
「羽堂様?」
心の中に不安が広がっていく。
真夜は自分自身に『落ちつけ』と言い聞かせながら、もう一度彼女の名前を呼んだ。
「ご、ごめんなさい。ちょっと転んじゃっただけです」
声は案外近い所からした。
「…もー、びっくりしましたよ」
先程と同じ様に口をとがらせる真夜。「今度はわざとじゃないですよー」と、焦った様な声がした。
再び沈黙が満ちる。
真夜は再び、棚の数を数え始めた。
「…真夜さん」
「はい?」
今度は向こうから名前を呼ばれる。
真夜は、数字を忘れない様に気を付けながら作業を止め、その声に返事をした。
「あの、ごめんなさい。さっき気付いたんですけど、奥の方にもう一室なんかあるみたいでした」
「えー…どうしましょう」
てっきりこの書庫で終わりだと思っていたのに。
判断に迷い…少し考えて、真夜は口を開く。
「どうせ、この書庫ももう一度皆で調べに来なきゃなりませんし。その時にしませんか?」
「…………そうですね。変なこといって、ごめんなさい」
少し間を置いて、羽堂も同意した。
…なんだか、今日の羽堂はやたらに謝るなあ、と真夜はどうでもいいことを考えた。
そして、三度目の沈黙。
それが破られるのには、そう時間は掛からなかった。
「ところで、真夜さん」
「なんですか?」
今度は数える作業をやめないまま、生返事をする。
「昔、この町に来たばっかの時に聞いた話があってですね。『森の外れにある家の話』ってだけで、本当にここなのかは解らないんですけど」
「森の外れにある家、ですか?」
塔の周囲は、森に囲まれている。
だからこの屋敷は確かに『森の外れ』ということになるのだが。
ただ、この屋敷の事を指すなら、『森の外れ』というより『塔の麓』と言った方がより解り易い気がする。
「なんでもその家には、大金持ちの商人が住んでいたそうです。
並はずれた商才で富を築いた彼は、貴族の娘を妻にしました」
所謂『名誉貴族』という奴だ。品の無い言い方をすれば『成金』とも言う。
「二人の間には娘が生まれました。彼は大層その娘を可愛がったそうです。
全てを手にした、という訳でも無いですが、それなりに幸せな日々だった様です」
「…………」
「ところがやがて、家族に悲劇が訪れました。妻が病魔に倒れたのです。生きながら身体が腐っていくという恐ろしい病でした。
一年という時間、苦しみに苦しみぬいた末に妻は亡くなりました。しかし彼と娘は、それを悲しんでいる暇も無かった。彼らもまた病魔に侵されていたからです」
淡々とした口調で、羽堂は語る。
「彼は貯めこんだ財を吐き出し、病魔を下す術を探しました。
しかしどんな薬も魔術も、彼らを救ってはくれませんでした」
「…………」
「娘の方が若い分、病魔の進行は早かったそうです。手の指が腐り落ち、脚の指が腐り落ちました。彼は娘の手首を落とし、足首を落としました。だけどそれでも、その切り口から娘は腐って行くのです。やがて目が腐り、耳が腐り、娘は光と音を失いました。やがて舌が腐り、自らの意思を伝える術も失いました。そしてその頃彼は、とある禁断の秘法に辿り付きました」
「…『人』を棄てたんですね」
「そうです。彼は悪魔に魂を売り渡しました。それが自分と娘の救いに繋がることを願って。だけれども、悪魔となった彼は、娘のことをすっかり忘れてしまっていたのです」
富を忘れ、欲を忘れ、時を忘れ、妻を忘れ、娘を忘れ、人であったことすら忘れ。
ただ、消えない渇望だけを胸に抱いて、彼は王になった。
何を望んでいるのかも解らないまま、何を待っているのかも解らないまま、彼は未だにこの時を生き続けている。
「そして残された娘は、父がどうして突然消えてしまったのかも解らないまま、来ない父親を待って、自ら命を絶つ事もできないまま――と、いうお話」
「…………ぞっとするお話ですね」
真夜は、本に触れない様に気を付けながら、棚を数える作業を続けながら言った。
その話がこの屋敷で起こった事だと決まった訳ではないのだが、そんな話を聞くとやはり恐怖心が生まれる。
本にもなにか昔の病や毒が染みついていそうな、そんな疑いを持ってしまうのだった。
「それでですね。娘の身体が腐って、二目と見られぬ姿になってしまった時、彼はそれを憐れんで、人の目につかない場所に娘を隠したんですって」
羽堂は話を続ける。
『違う』者を隠す。それもまた、珍しいことでは無い。
また、一概に忌むべき事かと言われてもそれは違う気がする。
『違う』ということは、ただでさえ恐怖を呼び起こすものだから。
朝色の町は、『違う』ことについて寛容な町だけれど。それでも、『病魔による違い』については、どうだろうか…。だからこそ彼も、娘を隠したのだろうし…。
「…………それも含めて、明日にでも皆で見た方がいいかもしれませんね」
羽堂の言いたい事を察して、真夜は言った。
要するに、書庫の奥にあるという部屋の事を言っているのである。
興味が無い訳ではないが、もし探って取り返しのつかないことになってしまっては困る。
カフェで話し合った時に、「深追いは禁物」と話した筈だ。大体、それを言ったのは確か羽堂では無かったか。
「…………」
ふと、真夜は手を止めた。
どうにも違和感がある。
先程羽堂が「転んだ」と言った時、その声は思ったよりも近くでした筈だ。
そして、それからも自分は作業を進めている。作業を進めていると言う事は『羽堂の方に向かって移動している』ということだ。
なのに、彼と娘の話をする羽堂の声が全く近付いている気がしない。
真夜は息を止め、髪留めを片方外して、手近な棚に置いた。意を決して、走る。古い床がぎしぎし軋んだ。
そうだ、そういえばそれもおかしい。先程彼女は『転んだ』と言ったが、聞こえたのは悲鳴だけだった。
辺りを見渡しながら走る。羽堂の姿が見えない。何処にもいない。疑惑が確信に近付く。さっきまで話していたのは、羽堂亜理紗じゃない。
大体彼女の性格からして、そんなエピソードを知っていたら黙っていられる筈が無いのだ。ここに来る前に、カフェで…いや、自分が町に来た時に洗礼代わりにでも聞かせてくれたことだろう。
「ちょっと、どうしたんですか!?」
気が付けば、人に取り囲まれていた。
朱音、かなた。少し離れた所に、イソレナ、乾、パッチーもいる。
皆心配そうに自分を見ていた。
一瞬混乱して…そして、自分が逃げ切った事を知る。
破れそうな心臓を押さえ、今自分が飛び出て来たらしい屋敷を振り返る。
しんと静まり返った古い屋敷。何か騒動が起こった気配は無い。勿論、あの化け物は影も形も見えなかった。
「…………」
真夜は大きく息を吸って吐いて、姿勢を直し…イソレナの後ろにいた羽堂を見て、ぎょっと顔を強張らせた。
「羽堂様?」
「…え、ああ、はい」
「本物、ですよね?」
「…偽物がいるんですか?
…取り敢えず無事で良かった、心配してたんですよ」
羽堂は溜息を吐きつつ、手を頬に当てた。周囲を光球がくるくると回っている。
彼女の話によると、探索途中、外の合図を確認する為に廊下に出て、再び部屋に戻るとそこに既に真夜はいなかったらしい。
呼んでも返事は無く、一人で探索を続ける訳にもいかず進退極まっていた所、外に合図が見えた。
それは乾とパッチーの探索終了の合図で、程無くイソレナ・かなた・朱音の探索終了の合図も続いた為、羽堂は困った挙句階段を降り、一旦外に出ることにしたのだという。そしてどうしたものかと考えていた所、真夜が走り出て来たという訳だ。
「…………」
羽堂の話を聞き、真夜は妙な顔をした。他にできる表情が思い付かなかった。
「ま、取り敢えず全員戻ってきたし、カフェに戻って意見交換しましょうか」
「私、金貨の入った袋見付けましたよー」
「おお、さすがトレジャーハンター」
わいわいと騒ぎながら、歩き始める一同。
ごめんなさい
許してくれたんでしょう
「…………」
真夜は、手首を見た。
身体は熱くて、心臓は熱くて張り裂けそうなのに、彼女が触れたそこは妙に冷たさが残っている気がした。
「逃げちゃってごめんとは言えないけど」
手を握った時の嬉しそうな顔をふと思い出す。
「…許すも何も、病気になったのも、醜くなったのも、別に貴女の所為じゃない」
小さく呟き、真夜は皆の後を追った。
ようやく、いつの間にか雨があがっている事に気付いた。
雲の隙間からは、星が輝いているのさえ見える。
風と雨のお陰で空気が澄んだのか、それはいつもよりも美しく思えた。
水や風の精霊が暴れていたのは、別に嵐が近いからではなく…誰かの衝動に呼応したからだったのだろうか。
後日。
改めて、例の屋敷の探索が行われた。
書庫の奥の小部屋からは、簡素な生活環境と、寝台の上の茶色い砂が発見された。
恐らく、人間の骨だったものであろうとはイソレナの弁。
真夜はそれを見なかった。
皆が騒いでいるのを尻目に、立ち並ぶ本棚の隙間を歩く。
ふと、とある棚の上に、髪留めが置かれているのを見付けた。
自分の頭に付いているものと対になったもの。あの夜置いたものに違いない。
なのにそれは何故か、まるで長い年月を経た後のものであるかの様に錆びていた。
「…………」
お酢で落ちるかな。
真夜はそんなことを考えながら、それをポケットにしまった。
アハハ