軽い気持ちだった。
そう、本当に軽い気持ちでのことだったのだ。
01-傘も差さずに
あれは、行きつけのレストランでの出来事だった。
勝手知ったる店内に、見知った店員。
いつもの席に通されて、いつもの様にメニュー表を手に取る。
定番メニューの並ぶ、見慣れた紙。
その隅に、見慣れない文字が追加されていた。
『スマイル 0G』
ちょっと笑いそうになる。
顔を上げると、向かいの席に座った太陽は、既ににやにやと笑っていた。
彼はウェイターに視線を向けると、迷わずに言う。
「ポコス君。スマイルを」
私は堪え切れず、くくっと笑みを洩らした。
顔を伏せたまま、視線だけでウェイターの様子を窺う。
しかし視えたのは、予想した様な狼狽では無かった。
「かしこまりました」
一点の曇りも無い笑顔。
小首を傾げて、晴れやかに。
雨雲さえ吹き飛んでしまうような、いい笑顔。
「…………」
「…………」
時が止まった。
太陽と二人で、その笑顔を注視する。
…それから、およそ数分。
時間にすればおよそ数分なのだろうが、体感的にはかなり長い時間だったように思われる。
ポコスは唐突に笑顔を引っ込め、注文伝票を持ち直した。
「で、注文は」
「…………。あ、えーと。…えーと、咲良さんは」
「…あう。…あー、エビピラフ」
こちらを見る奴の顔は、いつにも増した仏頂面。
やるなこいつ、と思いつつも、私達はそそくさと注文する品を決めた。
それからはいつも通り。
食べて、飲んで、ポコスにちょっかいを出して。
窓の向こうに見える雨雲に少し焦りつつも、楽しい時を過ごし。
やがてどちらからとも無しに席を立ち、勘定を済ませ、店を出た。
「ああ、おいしかった。おなかいっぱい」
「さて、次は何処へ行きましょうか」
「んー。…雨、降らないかなぁ」
「降っても構わない所に行きましょうか」
「うん」
簡単に目的の場所を決め、歩き出す。
どうでもいい話をしながら、てくてくと…およそ、数秒。
ふと気配を感じ、振り返った。
「…あ、太陽。見て」
「ん?」
今出てきた店のドアから、ポコスが顔を出している。
顔面に貼り付く、例の笑顔。
あの野郎、と思いつつ、私達は微笑み、彼に手を振った。
彼はアクションを起こす事も無く、ただこちらを見詰めている。
にこにこと微笑みながら…。
「…ポコスも器用になったなぁ」
「大人になったのですよ」
勝手な事を言いつつ、私達は彼に背を向け、再び歩き出した。
雨が降っても構わない場所。
それは、町外れの図書館だった。
私達は興味がある本を手に、談話室へ向かう。
どさりとテーブルに本を置き、なんとはなしに窓の方へ視線を向け…
「…あ」
「…ん」
私の声に、太陽が顔を上げる。
私と同じ方向に視線を向け、訝しげな顔をした。
窓の外の植え込みに、ポコスが立っている。
相変わらずの、あの笑顔のまま。
「…なぁ、もしかして、『スマイル』を買ったから?」
「…でしょうかね」
まぁ、恐らくは間違いないだろう。
いつもからかわれている仕返しなのか、割と根性入った嫌がらせだ。
しかし、そうと解っていつまでも狼狽する私達では無い。
こういうのは、相手をしないに限る。
私達は視線を彼から逸らし、本を肴にお喋りを始めた。
しばらくして、雨音が聞こえ始めた。
水の粒が硝子を叩く音に、顔を上げる。
ああ、やっぱり降ったか…と思いつつ、窓の方へ顔を向け…
私は、今度こそ硬直した。
傘も差さずに、雨に濡れて、奴がいる。
笑顔のままで、こちらを見ている。
「な、なぁ、太陽…」
「…………。帰りましょうか、咲良さん」
流石の太陽も、難しい表情をしていた。
胸の内では色々考えているに違いない。
いつものノリでの色々が、彼を傷つけた可能性とか。
自分たちが思っている以上に、彼に恨まれている可能性とか。
だとしたら、どうすればいいのかとか。
私は太陽の後に付いて図書館を出る。
太陽は、何処に持っていたのか、傘を取り出した。
二人が入れるような大きな傘。
何も云わずに、館の裏手に回っていく。
彼が立っていた茂みへと歩んでいく。
しかしそこには、誰もいなかった。
「…………」
辺りに気配は無い。
流石に、帰ったのだろうか。
言葉を無くす私達。
太陽は私を見て微笑んだ。
「家まで送りましょう、咲良さん」
「あ、ああ…ありがとう」
いつもなら、一度は断る所だ。
しかし今日はこの天気で、私は傘を持っていない。
ありがたく申し出を受けることにして、頷いた。
それからの道のりは、非常に重いものだった。
先程と同じ様などうでもいい話も、心の表層を滑って行く。
深層の方に誰がいるのかなど、言うまでもなかった。
家に着くと、主人が出迎えてくれた。
「お帰りー。このバカップルめ」
「うるさいよ」
能天気な言葉に、少しだけ表情が和らぐ。
ではこれでと背を向けようとした太陽を、主人が呼びとめた。
どうせなら夕食を一緒に、と誘う。
太陽は少し迷った素振りを見せつつも、それを受けた。
一人になって色々考えて、落ち込むのが怖かったのかもしれない。
今日の夕食当番は、確か火乃香だ。
夕食が出来るまで、私の部屋で待つ事にした。
少しほぐれてきた心に自分でも安心しながら、三階まで登る。
先に立ってドアノブに手を掛け、一気に扉を開いた。
真正面の窓。
暗闇と、雨粒。
三階の窓に貼り付く、笑顔。
ポコスが、そこにいた。
「…………」
「…………」
立ち竦む私達。
呆気に取られたその一瞬の隙に、彼の姿は消えた。
「…なぁ、太陽」
「…明日も会えますか、咲良さん」
「…うん」
「店に行きましょう」
「うん」
軽い気持ちだった。
だけど、それがいけなかったのだろう。
よく知った仲だと思って、油断していた。
だけどそんなことは、言い訳にはならない。
スマイルを。
スマイルを、軽い気持ちで頼んでしまったばっかりに…!
翌朝。
私達は再び、例のレストランへと向かった。
女主人の笑顔に、曖昧な笑顔で頭を下げる。
二人で話し合った訳でもないのだが、私達の手にはそれぞれ手土産が下げられていた。
こんなもので許して貰えるかどうかは解らない。
自己満足かもしれないが、何もしないよりはましだと思う。
「いらっしゃいませ。…二日連続って、なにげに珍しいな」
いつものテーブルに通されて、現れたのはいつも通りの彼。
後半の言葉を小声で言って、まじまじと私達を見詰める。
私達は黙って、彼を見詰めた。
自然に、二人同時に頭を下げる。
「ごめんなさい!」
「私達から言えたことでは無いかもしれませんが、…許して頂きたい」
沈黙。
余りに長い沈黙。
やがて耐えかね、顔を上げる。
視界にうつったのは、怪訝な表情だった。
「…は?」
訳が解らない、という顔をしているポコス。
私達の顔を見比べ、溜息を吐く。
「またなんかやったのか、お前ら」
「…へ?」
「今日は忙しいんだから、できれば勘弁して頂きたい、御客様」
冗談じみた不自然な敬語。
全くいつも通り、見慣れた彼の姿。
訳がわからないという表情はそのままだが、訳がわからないのは私達の方だ。
「だって、昨日、怒ってたよね?」
「何が」
「ついてきてたでしょ?図書館とか、うちとか」
「…はぁ?…そんな暇ある訳無いだろ。昨日今日とうちは千客万来中だ。
お前らのデートなんかついていって、どうしようって言うんだよ」
言って彼は、女主人の方へ視線をやる。
「ありがたいことに大入りですー」
彼女はこっくりと頷いて、彼の昨日のアリバイを証明した。
顔を見合わせる私達。
恐らく同じ様な表情をしているに違いない。
訳が解らないながらも、私は再びポコスに視線をやった。
「…そうなのか」
「そうだよ。
…大体、あんなんメニューに載せる時点で、そういう客がいることくらい予想してる。
お前らが来た時点で、ああこれは来るなと思ってたし」
「…………」
「解ったら、早く注文。何度も言うが、忙しいんだから」
もう一度、私は太陽と顔を見合わせた。
ついでに、辺りに視線を巡らせる。
確かに店内は、いつものこの時間よりも人口密度が高い様に思われた。
「…本当に客が多いな。この季節は飲食店は客が少なくなるって聞いたんだけど」
「いや、ほら。時期が時期だから」
ポコスは言って、ぴこぴこと指を振る。
「なんか、『地獄の釜の蓋が開く』って言われてる記念日らしいぞ。死人が帰ってくるんだと。
地方によっては、それに合わせて簡単なパーティーを開いたりもするらしいからな。
そういう地方の出身者が集まってきてるんじゃないか、多分」
「…………」
「…………」
三度目、私達は顔を見合わせる。
えーと。
つまり…どういうことなのか。
「いいから、注文!」
「あ、えーと、えーと、エビドリア!」
「咲良さんはエビが好きですね」
「こらポコス、注文を急かさない!」
彼の急かす声と同時に、喧噪といつも通りの日常が戻ってくる。
心の内から重苦しいものは消えたが、代わりによく解らないもやもやしたものは残った。
結局、なんだったのか。
それは、誰にも解らない。