「…うーん」
羽堂亜理紗は、腕を組んで空を眺めていた。


14. 全てを洗い流してしまえばいい。


明日以降の食糧を確保するべく買い出しに出たのは、記憶が正しければ恐らく陽が未だ東側に傾いていた頃だった筈だ。
市場で見知った顔と出会い、お喋りに興じつつ彼女の経営する店へと足を運んだ時には、それは丁度頭の真上で輝いていた筈である。
食糧も持っていることだしそう長居はしないつもりでいたのだが、それは結局の所ただの『つもり』に終わった。
友人兼飲食店の女主人である彼女に別れを告げて店を出た今現在、光もたらす偉大なる天体は、すっかり地平線の間際擦れ擦れの辺りまで沈んできてしまっている。『昼前には戻る』と聞かされ、昼食を用意して自宅で待機していた地龍は、今頃さぞかし御冠であることだろう。
更に間の悪いことに、今日は他の皆も出かける予定だと言っていた。つまり、誰かが彼女の気を逸らしていてくれるということも無いのである。
 だが亜理紗がこうして店の軒先で突っ立っているのは、別に彼女の怒りを恐れているからでは無い。
何と言い訳をしようかと頭の隅で一応考えてはいるものの、それは決して切羽詰まった悩みとは言えなかった。
 そんなことよりも、今、より直接的に、より短絡的に羽堂亜理紗を悩ませているのは、ただでさえ地平線近くまで沈んだ太陽を更に脅かす、薄く棚引く暗雲の群れである。今はまだ薄く漂っているだけだが、この時期の天気というのは急変しやすい。家に着く頃には大雨、という可能性も充分にある。
いや、家に着く頃ならまだいい。帰宅途中の道端で突然降られるのが一番始末に悪い。
そして彼女は、自分が余り空に愛されていないことを自覚していた。
恐らく、ここを離れてしばらくした頃にざあざあと降り出し、家に着く頃にはぴったり止むか、そうでなくても小雨になる筈である。
勿論ただの想像であり確証は何も無い。
だが、この手の予感に関する的中率の高さは、各々方の心の中に確かな実感として、場合によっては笑えないエピソードすら伴って存在している筈だ。
 羽堂亜理紗の胸の中にも、その手の実感は存在していた。だからこそ彼女は、時間が押しているにも関わらず、飲食店の軒下から空を眺めているのだ。
実感あるこの『法則』が、今日に限って的中しないということを信じるか。それとも、大人しく自宅に連絡して地龍を迎えに来させるか。
後者の方が、濡れたり風邪を引いたりするリスクは低い。だが、御冠の地龍を召喚する為に、早急に遅刻の言い訳を考えなくてはいけなくなる。
真面目で心配性の彼女であるから、恐らくは本気で主人である自分の事を心配している筈だ。その分、無事だと知った時の怒りは大きかろう。
絶対的に自分に非があることは解っているが、それでも説教は短めに済ませたい。できれば回避したい。
「どうしたんですか?」
 店の外に出た客人が、いつまで経っても帰らず空を眺めている事に不審を感じたのだろう、暖簾の奥から店員が顔を出した。
「いや、空が。降りそうだなと思って」
「ああ、これは来るでしょうね、ざっと」
 彼は羽堂と同じ様に空を眺める。目に掛かる長い髪が邪魔なのか、小さく首を振ってみせた。
「咲良を呼ぼうかなーって考えてたの」
「ああ。…それか、傘を貸しましょうか?」
「いや、いいよ。いいです、ありがとう」
 有り難い申し出の筈なのだが、羽堂はそれを反射的に断った。純粋に申し訳ないのと、あと、干して返すのが面倒だからである。
ポコスに愛想笑いを向け、その視線を再び空に映し、溜息を吐いた。
――しょうがない、じゃあ咲良を呼ぶか。言い訳は話しながら考えることにしよう。
そう覚悟を決め、召喚石はバッグの何処にしまったかなどについて思考を巡らせる。

 まさにその瞬間。
 天高く一閃、青白い光が、西の空を縦に引き裂いた。

 一呼吸遅れて、凄まじい轟音が響く。
「今の凄かったですね」
 光と音につられたのか、目を丸くした朱音が暖簾の奥から顔を出した。
「神鳴り様の渡る道、か」
 視線を自身の主人に向け、空に向け、呟くポコス。
 だが次の瞬間、二者に言葉も掛けず、羽堂は走りだした。
あの突っ掛けでよくもまあ、と思う程に素早く、雷で足を止めた群衆の間をすり抜け、真っ直ぐに。
朱音は目をぱちぱちさせながら、彼女の後ろ姿を目で追う。それが見えなくなると同時に、自分の地龍の方へ視線を移した。
ポコスは渋い顔をして、あーあー、と呟いた。視線は羽堂が走っていた方角、彼女の自宅の方角をじっと見詰めている。
あれだけ何やら悩んでいたというのに、条件反射の様に駆けだした。
そこまで心配なら、そこまで大事なら、普段からもう少し態度を考えればいいものを。
…という訳にもいかないか、と、自分や身近な者の顔を思い出し、ポコスは首を横に振る。
心というのは、複雑に出来ているものだ、本当に。だからこそ面白いとも言えるのだが…。
…………めんどくさい、とも思える。
そして、一度めんどくさいと思ってしまうと、もうそうとしか思えなくなってしまったりして。
 朱音が何がなんだか解らないという表情だったのも一瞬の事。すぐに合点が行ったという顔をし、一人頷く。
「女の子は弱点があってもそれはそれで可愛くていいですよね」
「コメントの軸が大分ずれてるぞ、お前」
 程無く、雨が降り出した。
あっという間にそれは土砂降りと形容してもいい程の本降りになり、稲妻がその間を切り裂く様に何度も空を縦断する。
「今晩の客入りは期待できそうにないですねー」
朱音は溜息交じりに言いつつ、店の奥へと引っ込んでいく。
ポコスはちらりと空を一瞥した。


全てを洗い流す様な大雨。
いいことも、悪いことも、面倒臭いことも関係なく、雨はただ降っている。
いっそ全てが無に帰してしまえばいいのに、などと考えてみたりもして。

「…なんてな」
彼は小さく呟き、思考に区切りを付ける。
店の中から自分を呼ぶ声に応え、そして、自分の日常へと戻って行った。



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