道端に咲く花に敬礼。こう文字にすると、何やら詩的な表現に思える言葉だ――
「あ、あの…?これっていったい…?」
放課後の美術室、下校もせず部活にも未だに入部せずに美術室の隅でこっそり油を売っていた秦茶織は、風紀委員である蔵本風矢に見つかり強制的に下校を促される。この学校に入学してから既にそれなりの時間が経過して、見つかる場所は毎回違えどこの一連の流れはいつもの風景になりつつあった。
「どうしたのですか?」
既に頭を悩ませる新入生という認識をして、ぞんざいな口調を返すと同時に冷やかな視線を茶織に向ける風紀委員と裏腹に、やや混乱しながら茶織は今さっきまで自分が勝手に休憩をとっていた美術室の後方の扉を――風紀委員の仕事を無駄にこの生徒が増やしている要因の一つである、女生徒でありながら男子生徒用のブレザーを着崩したまま――指でさす。
「だから、あの新しい芸術品?のことですよ。いきなり入ってきたから、ボクは思わず轢かれそうになって…」
その指の指し示す方向には、用務員にけん引された荷物運搬用の荷台に乘った、教材として贈られたのだろうか。ブロンズの彫像のようなものがドアを跨いで止まっている。
「ああ、あれは今日からこの美術室に縁があって寄贈されることになった作品ですよ。もちろん、朝のホームルームで報告があった筈ですが?」
風矢の言葉に、茶織は口ごもる。言外にホームルームの話をきちんと出席して聞いていたなら、こんな目に合うはずはなかったし、そもそも勝手に美術室の入り口付近で休憩するのが風紀違反であるから文句は言えるはずもない。
「だからって…、なにも確認もなしにいきなり搬送して確認もなしドアを開けるのも警戒心がプロとして欠けてるんじゃないですかね?…、あ!」
原因を作ったのは自分とはいえ、風矢に責められた茶織は体制を直して腕を組み口応えの言葉を言い出した時点で、あることに思い至った。
「そういえば、妙にボクが騒ぎを起こしてから蔵元先輩が駆け付けるまで早かったですよね?妙に気にしていた様子でしたし…」
最後の語尾をわざとらしく強め、目線を風矢に向ける。なっ!とそれまでのクールな姿勢を崩して顔を僅かに赤める風矢。
「いったい、何を言っているんですか君は!相変わらず反省もせずに人に余計なちょっかいをかける言葉ばかりを言って」
そこでチャイムが鳴り、互いのやり取りも流れることになった。やや決まりの悪い空気を感じながらも、茶織は逃げ出すようにバッグを掴んで校外に飛び出していった。





「大切な人…かあ」
既に明かりが点り始めた校庭。幼年部から付属大学まで一緒になったマンモス校である学校から外に出るには、結構な距離を移動しないといけない。まだ学校に残ている生徒や練習を始めた部活の掛け声を背に、茶織はとぼとぼと帰りのバスが出るバス停のベンチに辿り着くと、そこに腰を下ろして考え込む。ああやって風紀委員の先輩をからかってみたのは、きっとなんとなく「高校生」という身分をだらだらと過ごして、それまでと変わらない日々を、おそらくこれから先も過ごすだろう自分と違い、少しずつ目の前のことに対応して変化し、大人になっていくだろうというあの先輩に、なんとなく意地をはりたくなったのかもしれないと考えてみた。気が付くと、せっかく環境が変わっても、同じことをして無駄を重ねて他者に迷惑をかけていると感じる茶織にとっては、大事な人がそばにいるという実感はいまいちわからないものがある。腹違いの姉はもちろん大切な存在でっても、身近にずっといる大事な人という感覚は。そう考えると、さっきまで美術室で無駄な時間を過ごしていたことを急に後悔する気持ちにもなってきた。あそこで休憩を中断した美術品、あれのおかげかもしれない。脳裏に自分の眼前に迫た美術品のプレートと、そこに刻まれたタイトルが浮かび上がる。あれは確か――
「道端に咲く花に敬礼」
「そう文字にすると、なにやら詩的な表現に思える言葉だね…?うわあ!」
涼やかな、しかし耳に心地よく聞こえる女性の声が、ちょうど茶織の脳裏の言葉を代弁した、突然誰もいなかったと思っていたバス停のベンチの反対側から、女性の声が聞こえてきたことに驚くのが遅れたのは、その声や存在がある意味、この黄昏時のバス停に非常に違和感なく溶け込んでいたからでもある。
「よいお言葉ですね…おや?」
どうやら茶織に向かって発した言葉ではなく、独り言だったらしい。思わず背中側のベンチから飛び上がった茶織にようやく気付いたという素振りで、その反対側の少女も振り返る。肩まで綺麗に切りそろえられた髪がを僅かに揺らし、無感動にその少女は茶織の顔を見た。
「おやまあ、わたくしとしたことが。すぐ隣でお待ちになられている方の存在い気が付かずに、大変失礼をいたしました」
口で慇懃に詫びながら、そのおかっぱの少女は一度ベンチから立ち上がると、姿勢の良い形でまっすぐに一礼して、再び椅子に音もなく腰掛ける。非常に整った顔立ちが、まったく表情を変えない様子と相まって、なにやら神秘的な様子だった。
「い、いや大丈夫だよ。ちょっと驚いただけだし…キミ、確か同じ学年の人だよね…?」
その優雅な様子に、どこか緊張しながら茶織は目の前の少女がいつも車で送り迎えをされる形で登校する、同じ学年の不登校気味で友人と呼べるほどの人脈がない茶織ですら知っている有名な生徒であることを確認しようとして、なによりさっき自分が迷惑をかけた風紀委員の大事な人でもあった。そしてさすがに失礼であろうと後半部分のことを口にするのを思いとどまった。
「ええ、時雨坂小町と申します。どうぞよしなに」
「あ、うん…」
その女生徒、時雨坂小町の膝の上に両手を載せ、頭を下げる仕草には言葉で表現される以上の気品が感じられた。なにやら後ろめたい気持ちになった茶織はほとんど返事にならない言葉でこちらも遅れてベンチに腰掛けると、まだ時間があるバスを待つ。なにあやら気まずい感じの間を感じていた。
「ねえ、さっきの言葉だけど」
「……はい?」
この空気を破るように、茶織はさっきの自分の脳裏に浮かぶ言葉に答えるような形になった、謎の言葉を問いただす。
「さっき言ったよね?確か…道端に咲く花に…とか、なんかのタイトルみたいなの」
「ああ」
そのことですか、と無表情のまま小首を傾げ、小町は茶織の質問に答える。
「独り言とははしたないことをしてしまいました。あの道端に咲く花に敬礼、とは今日この学校に寄贈されたある前衛芸術の作品につけられた題名です」
「え?えっ?」
あまりに唐突な言葉に理解が追い付かない。ただ、自分も見たものと結びつけるのに精いっぱいであった。
「この学校の卒業生であり、今は前衛芸術家となったある御仁がこの学校にこのたび寄贈された作品の名前。同じく学校の卒業生であった奥様とご自分のご縁を閃きとされ、人と人とのご縁を題材にされたものです」
すらすらと淀みなく、その美術品の来歴を諳んじる小町。
「へ、へえ…でも、学校にわざわざ作品を寄贈するって結構すごい人なんだね?」
「それだけではありません、現在わたくしたちと一緒に机を並べる娘さんのことも慮っての、作品の寄贈だそうです」
「へえ…?え?娘って、…まさか橘さん!?」
ここまで聞いて、茶織には父親が前衛芸術家だという一人の同級生の女生徒が同学年にいたことを思い至り、別の意味で驚く。
「私たちの存在はこの世で泡沫の中に咲く野花のようなもの。その中で定められた縁で各々が出会い、関わりを紡ぐのです。そう考えると、道端に咲く花を無下にはできないではありませんか」
どうやら、道端に咲く花というのは、人と人との縁という、気にしなければ本当に素通りしてしまうような日常の時間で広がるもののことらしい。少なくとも、茶織の理解の範疇ではそこまでしかわかりそうになかった。
「そ、そうなんだ…でも、本当によく知ってるんだね。まともにホームルームを聞いてなかったボクと大違いだよ。…おっと、こういうことをおろそかにしないことが縁なのかな?」
話の内容に半ば圧倒されながら、ようやく平静さを取り戻した茶織はそうやって場を取り繕おうとする。その言葉に小町は、初めて当惑しその後ほんの少し顔を赤らめるという初めて感情のこもった様子を見せて。
「大宇宙の意志がわたくしにおしえてくれるのです。その「道端に咲く花に敬礼」の前で風矢様と今日は出会えると仰せでしたから」
は…?完全に想像と理解を超えたその言葉に、茶織は今度こそ固まった。
そんな茶織の様子にやや不審そうな目線を送りながらも、小町はでは、と一瞥をして校庭の方へ、そしておそらく美術室の風矢の方へ向かっていった。しばらくの放心状態の後、何やら大型の乗り物の動く音とライトの光でバスの存在に気付いた茶織もまた我に返る。人と人の縁、あまりに突き詰めると哲学的になりそうだったが、そもそも難しく考えるものではないのだろうと直感的に思った。時が過ぎる中で、人と人が縁を結ぶ流れは膨大なようで限られているのかもしれない。そう考えると、あまり余計な真似する訳にもいかないのかもしれなかった。道端に咲く花に敬礼、なにやら詩的に思える表現だが、難しく考えることはない。まずは今回迷惑かけた風紀委員と用務員に明日にでも、なるべく会ったら謝ろうと感じて、わずかに道端のバスのライトに照らされる草花に目をやると、茶織は明日ここで見るだろう草花の様子を想像してバスに乗った。



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