朦朧とした意識が少しずつ戻り始める
ぼんやりと映る視界には見慣れた142番地の応接室の壁。
「う…ん」
認識し始めた外界の刺激に、なぜ自分がこうなっているのだろうと鈍った思考で記憶を手繰り、そして数秒の間に『それ』に考えが至ると乾の全身の神経が一瞬収縮する。
それと全く同じ瞬間、横になった乾の頭の方から響く声。
「えらいよう寝ましたなあ」
部屋の灯りに照らされる白い顔は主の意識が戻った事を知り、小首を傾げて微笑む。吊られて長い黒い髪が揺れた。
「…あの…ひょっとして」
至和子の笑顔を目にして乾も笑顔になる。但し引きつった笑顔。ここで養生する羽目になる恐らく数時間前に、自分がやったことがその笑顔の応酬の理由に他ならない。
「…あ、目が覚めましたか」
がつがつがつがつがつ
咀嚼する音が空間を埋めつくす中、一心不乱にカステラを食べ尽くし、未だどこかにお代わりはないか目を見晴らす乃亜に代わって、従者である炎龍の青年が意識を取り戻した乾に気づく。
「ほんにこの阿呆がいらん心配かけました」
乾の枕元で仰いでいた団扇を止め、厳しい表情になると至和子は乃亜の隣でずっと立ち尽くしている二ウロに詫びの言葉を投げかける。
「…いえ、ただカステラを喉をつまらせて倒れてしまったのでそれだけは気になっていました」
事の発端は蘇生に訪れた二ウロと乃亜が蘇生後に至和子の振舞ったカステラとお茶を口にした後。乾は自分のカステラを確保しようと一気に食べようとしてカステラを喉に詰まらせてしまったのである。
「おお、至和子。乾の調子はもういいのか?」
「あらあら、ほんに乃亜さんは食べっぷりが」
ちょうど142番地のカステラが底を尽きるところだった。目を覚まし、
部屋の中の食物がまさに根こそぎと言うくらい消失している状況を目にして茫然となっている乾を横にあっけらかんと笑う至和子。
「この通り、うっかりしとったこの阿呆のせいで迷惑かけました」
もう大丈夫そうやし、と言う至和子の言葉にも乃亜は少々不安そうな様子だ。
「本当に大丈夫であろうな?そうであれば良いのじゃが…」
「どうぞお気になさらず。いつもの事や。気にせんでや」
「…主。至和子さんも大丈夫だと言ってくれています」
至和子の駄目押しに、まだ心配している様子だったが、乃亜は二ウロにも促され席を立つ。
「…わかった。では、そろそろ行くかのう。今回も世話になったな」
教会を後にしようと踵を返す乃亜と、後に続く二ウロ。
「あ、あんさん」
そんなニウロに至和子は声をかける。
「…なんでしょうか?
「これ…」
至和子は手元にあったバスケットを抱えニウロの目の前に差し出した。
「肉とカステラのあまりどす。この間の文やと思うてくださいな」
「…いや、受け取るわけには」
「わざわざ、あれだけのもんを食べる乃亜はんの前で我慢もきついですやろ?」
お腹空いてるやろうに、そこだけ上辺なのか素なのか微かに困ったような表情が笑顔に混じる。
そんな至和子にニウロは首を横に振る。
「…何度も言いいますが、俺は契約の時、誓いました。──主の命には、背かぬ、と」
一切の迷いもなくそう答える二ウロの表情に至和子が苦笑いをしながら言う。
「だから、これは『お礼』どす。私も自分の“ますたー"がああなったんやし、心配やったから」
同じ気持ちやったわけですわ。と、小声で付け加え、微笑む至和子。
「…礼は言っておく」
「だから、今回は礼を言うのは私の方からどす
渋々と承諾するニウロ。主へ真っ直ぐな主従関係を結ぶニウロに至和子は羨むような感情を感じていた。