「ん?」
橘咲良の目にあるものが止まる。
窓から光線が差し込む早朝の図書室。奥の一角である専門書のコーナーに足を踏み入れた彼女の移動を遮る足元のそれは高等部指定の鞄だった。
どうやら、自分以外に既に先に来ている生徒がいるらしい。正直こんなただでさえ人気のなさそうなところに意外な気がした。
正直人のものを勝手にいじるのは気が引けたが、持ち主がどこにいったか不明なままだし、このままでは目的の本を探す前に授業時間が迫ってしまう事も考えられたので、戻って来た時に持ち主にきちんと詫びる事に決めて咲良は鞄を机の上に移動させる事にした。
鞄に手を掛けると、チャックが半開きになっていたらしくその気は無かったが一瞬中身が視界に入る。筆記用具にアイポッドとイヤホンのセット、中身は分からないが曲を焼いたらしいDVD。更に……
「こ、これは……」
咲良が『それ』に気付いて思わずごくりと喉を鳴らした瞬間だった。
「あれ?ボクのバッグが荒らされてる?不法侵入者かな?」
「おおう!」
すぐ後ろから聴こえた声に咲良は驚いて飛び上がる。
振り向くと、入口の方に理系の専門書らしき本を何冊か抱えた生徒がいた。
学校指定のジャケットとスラックスのブレザースタイル。短い茶髪に褐色の肌の端正な顔をした、悪戯っぽい笑いを浮かべるその顔には見覚えがある。
「お前確か……」
「これは奇遇だね。ここは人気がないとこだし、普段は余程物好きな子しか来ないしね。それにしても珍しいお客さんだね。なんならせっかく会えたんだし……橘サンだったよね?キミも一冊どうだい?見たところ普段はこういうタイトルは縁がなさそうだけど、中々に興味深い中身だよ?」
咲良が一言言う前に畳みかけるように出てくる言葉の渦。思い出すのは早かった。
「そうだ。ダージリンだ」
「……それ、ボクが確かに昔口にした事だけどね……さすがにボクの本名じゃないよ」
一瞬、笑顔が曇る。よく分からないが目の前の生徒がかつてそう名乗ったらしい通り名は決して本人的にも本位とは言い切れないらしかった。
「ああ、ごめん。お前が名乗ったそれ結構インパクトあったし」
「もう、改めてボクは秦茶織だよ。よろしくね書記サン」
ネクタイの前に手を当てるようにして彼女――そう、こういう格好をしている彼女だ――は軽く会釈するように挨拶した。この格好こそが学校で不登校気味であるにも関わらず、秦茶織がある意味生徒間で悪目立ちしている理由でもある。
「でも、なんでお前がここに?」
「はは、今日は気まぐれで調べたい事があったからさ。
ボクみたいな奴しかこんな辺鄙で変な本ばっかり置いてある専門書コーナーに来たりはしないと思ってたんだけどね。見込みが甘かったって訳だ。
でも、よりによって橘サンみたいな優等生で、なによりこんな事に興味を持ちそうにない人がここに居る事の方がボクには驚きだよ。どうしてなの?」
「ああ、それはな。実は私は今日大学棟である公開講義を受けようと思って、それで先に事前の知識みたいなのを知っておこうと思ったんだ」
咲良にとって不思議と印象に残ったこの間の公開講義が今日またあのユニークな講師を通じて行われる。咲良にとっては是非ともまた受けたいところだった。
「……え?橘サン……そこ受けるの?」
その瞬間、何故か真顔になってキョトンとした表情になる茶織。どことなくかよわい表情になった。
「ああ、それがお前に関係あるのか?……ああ、ひょっとしてここに来てるって事は……」
「や、やだなあ。理工系の公開講義なんて橘サンみたいな女の子にはらしくないって意外だっただけで……」
何故か妙に狼狽して必死に笑顔で取り繕う茶織に、訝しげな表情になる咲良。そこで、茶織に謝らなくてはならないことがある事を思い出し、足元のそれを引っ張り上げた。
「ところでごめん。お前がここに来てたお前の鞄の中覗いてしまったんだけど…」
「っっっ」
鞄の全開になったチャックに負けないくらい茶織の口があんぐり開いた。
ぽかんと口を開け、驚愕の表情のまま固まる茶織をそのままに申し訳なさそうに咲良は聞きたかった事を質問する。
「これ……ヘブンズレイのクーポンだよな?」
ヘブンズレイ。それは学校の通学路の近辺に最近できたお菓子のお店。男性厳禁を店そのものが歌っているような少女趣味全開の装飾にフリルとリボンでコーディネートされた可愛らしい店員さん。そして、そこでポイントをためた常連が貰えると評判の人形が女生徒たちに強烈なアピールをしている。
「私の方こそ、お前がこういうの好きだって言うのが正直意外だったと言うか……あ」
その言葉を最後まで続ける間もなく、気が付いたら土煙を上げる勢いで秦茶織は図書室から逃げ出していた。図書委員が注意をする間もないその電光石火の如き勢いはある意味で賞賛されるものだった。
「……これ、どうするか?」
後に残された鞄を手に咲良だけがそこに残された。




そして放課後。無事に授業を終えた咲良はだぶっとしたジャケットとジーンズの私服に着替え、大学棟に移動していた。
例によって手書きの地図を頼りに全開とは違う講義の会場と鳴ってる講義室で向かう。
今回は前回と違ってきちんと地図通りに居辿りつけそうだった。
ちなみに、朝一方的に咲良の心中に無駄な罪悪感を残して行った秦茶織の鞄は、そのまま図書委員に預けて行っても良かったのだが、一応授業で会うかもと思ってそのまま教室に持って行ったのだが、結局彼女は授業には現れなかった。
仕方がないのでいつでも返せるように先生に頼んでおく事にし、ともかく咲良は現在講義を受けに来ているのだった。
そろそろ、目的の講義室に近付いている事を改めて地図で確認する。その時。
「ひょっとして、公開講座を受けに来たんどすか?」
独特の訛りのある柔らかい声がした。
振り向くといつの間にか咲良の背後に長い黒髪の女性が立っていた。
「!?」
思わず振り返ると、そこにはいつの間にかファイルを両手に立つ長い黒髪の女性が、口元に微笑を湛え立っていた。
「ひょっとして、これから始まる天野先生の公開講義を受けに来たんどすか?
黒いタートルネックの上に白衣を着た女性は、微笑を浮かべながらその切れ長の眼を咲良が手にする地図に書かれている公開講義のタイトルにやる。
「え?ええ。実はそうなんですけれど……」
「そうどすか。実は私も今日は天野先生の手伝いをしに来てるんどすよ。何なら講義室まで案内しますで?」
「はあ?」
訝しげな表情で困惑する咲良に白衣の女性はああ、と気付いたように改めて頭を軽く下げる。長い黒髪がさらりと揺れる。
「失礼、私は刑部至和子と言うていつもは向こうの学棟の医学部の方におるもんどす。
天野先生のサークルにお世話になっとるんで、その時はこうして手伝いに来とる言う訳どす」
そう言うと、今度はにっこりと破顔して屈託なく笑う。
「実は今日、私の身内もここに来る事になっとるから、同じくらいの歳の娘がいるのはなんか有難い思うて、つい声掛けさせてもらいましたわ」
「へえ、刑部さんの身内の方が?」
唐突な話題の切り替えに戸惑いつつも、身内と言うことは従兄弟か親戚の誰かが理工系志望なのだろうか?と思いつつ講義室に至和子の促すまま足を勧める咲良。
「そう、せやから咲良さんみたいな可愛い娘さんが来てくれて本当にあの子の為にも嬉しいわあ」
最初の頃のクールな雰囲気はいつの間にかすっかり消え失せ、無邪気にはしゃぐ至和子。その様子を横目で困惑気味に目にしながら、咲良はなんだか前にも同じような雰囲気の相手と出会ったような気になる。
「この人と似たような感じの……」
顎に指を当てて思案するが、上手く思い出せない。
「デジャブって奴……なのかなあ?」
「どないしたん?咲良はん……ん?」
そんな咲良の様子に気付いたのと同時に、至和子のポケットから小さく流行りのラブソングを歌った着メロが響き始めた。
「あ、橘はん。ちょいとかんにんな。……!はいはい。どないしたん?いや、私はもう講義室の前まで気とるで。実は高等部の子と今一緒なんや。
公開講義まであまり時間がないどすえ?」
断りを入れた途端、至和子は素早くエレベーターの脇に移動して会話を始める。
咲良の耳にも入ってくる会話の内容から察すると、どうやら今話していた例の身内からので電話のようだ。真剣な様子でどこにいるのかと半ば咎めるような口調になる至和子に対して、通話口の向こうの相手はふざけてでもいるのか会話は中々決着の気配を見せる様子がない。
「え?私へのお土産買うてたら遅くなった?そないな気使う暇あるんやったら少しでも女の子らしい格好の一つでもしてくれた方が嬉しいと言うのに?」
「ん?」
――女の子らしい――と言う最後の言葉が咲良の耳に妙に引っかかる。
至和子の身内は女性なのか。と、言うより『女の子らしい』と言うワードと妙に変化が激しい『至和子の性質』と言うキャラが、一見関係のなさそうな事柄を妙な符号で繋げていくような気がした瞬間――
「姉さん、久しぶり。もう目の前まで来てました。……これ、ヘブンズレイで貴女の為に買ってきた……」
言うエレベータの開閉の音と共に拓く扉の中から現れたのは、これでもかと言うほどの少女趣味の包装がなされた菓子箱と人形を満面の笑みで前に差し出す、短い茶髪に褐色の肌をした少女――そう、少女だった。咲良の今朝の記憶にある男子用ブレザーではなく、少女趣味の私服に身を包んだ秦茶織の姿。
―――
―――
―――
凍りついた。まるでホラー映画の暗転シーンの如く、満面の笑みはそのまま色は消え時の止まった世界で秦茶織は咲良と至和子とその他その場にいた多くの学部生たちの視線をその身に受け続けた(物理的に数秒だが、感覚的には無限にも思えると言うあれだった)。
「お前、朝から学校にいないと思ってたらそこにいってたのか?」
ただただ冷静に淡々と突っ込んだ咲良の一言で我に返った茶織は、そのまま亜光速まで行くのでは?と思わせる加速度で学部の廊下を飛び出して逃げてしまった。
あとに残った呆れるとも困るともつかずに佇む咲良が、同じく横でひたすら苦笑いを浮かべるしかなかった至和子から秦茶織と刑部至和子は腹違いの姉妹であるらしいことを聞かされたのはその直後。無事公開講義を受ける事が出来た咲良にそれ以上の面倒事に踏み込む気はある筈もなかったが鞄は無事ヘブンズレイでの人形と共に、至和子経由で茶織に返却されたと言う。



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