『がさがさがさ』
あの音だった。意識が戻り、跳ね起きる体がぐっしょりと冷たいもので濡れている感触が伝わる。あの時からだった。その時からこの不可解な状況は続いている。
彼女はついに意を決した。



「お待たせして申し訳ありません。お茶の支度が整いました。ホリイ様」
煎れたての真っ赤な紅茶を注いだカップが載るトレーを運んできた執事に名を呼ばれ、123番地の庭で茶会用の椅子に待たされていた白いブラウスとスカート姿の水龍は慌てたように振り向いた。
「はやい!?……ご、ごめん。ちょっと集中してて……はは流石。至和子の言ってた事に一片の誇大広告なしね」
これ以上ないくらいのオーバーリアクションとともに誤魔化すように彼女は笑う。これ外見年齢は執事や普段よく一緒にいる闇龍とほぼ同じくらい。肩の先まで伸ばした緩いウェーブの薄水色の髪が一瞬広がり、手にした一通の封筒にずっと向けてたどこか勝気そうな感じの顔立ちが声の方を向く。
執事にとっては123番地で彼女を接待することどころか直接会話らしい会話をするのもほぼこれが初めてのだったが、彼女の反応に朝町で何度かすれ違った際、相方的存在の闇龍と一緒にいた時の執事の記憶にある彼女よりも何やら精彩がないことをすぐに察せる程度には長く顔を会わせる相手でもある。
「それで、今日は一体どのような御用向きで?ホリイ様」
水龍ホリイ。142番地の教会に長く住んでいる古参龍であり、123番地の執事の『兄』である太陽と研究等で付き合いがある至和子とは友人同士の彼女が朝方に突然話があると連絡を入れてきた事は執事にとっても突然の話だった。
「……うーん、何て言うか。とにかく見てもらった方が早いわ。うん」
ホリイの表情からすうっと笑みが抜ける。訝しげな表情の執事に対して手にしていた一通の手紙を執事に向けて差し出す。読み進めるうちに手紙を開いた執事の表情に驚愕の色が広がって行った。
それは一枚の写真だった。
囲炉裏に囲まれた倒れる食事を取る男女たちの表情は暗い。
中央にはカメラに向けて指を立て満面の笑みを浮かべる……
「ホリイ様、この間の宴会のご様子を私に見せられても?」
「へ……?」
執事のその一言に呆けた表情で、眼を点にして固まるホリイ。束の間で立ち直ると執事に渡した手紙を確認すべく彼女隣による。
そこにはホリイがこの間他の龍たち(基本外見が成人だけでの)と開催した飲み会で彼女が暴れている姿が映っている
「だあっ。なんでこんなとこに入ってるのよ。飲み会の時に撮って、それっきりわからなくなってたのに。
自分で見せてこれじゃ心霊写真じゃないのよっ」
完全に我を失い写真を執事からひったくって回収するホリイを横目に、(酔っぱらって写真をポケットにそのままにしていたからでは?)と執事は内心突っ込みを入れていた。
「……と、とにかくよ」
今の行動でさっきより一層やつれたように見えるホリイは一度深呼吸をすると形だけでも冷静さを取り戻し、もう一度(今度は念入りに確認して)手紙を懐から執事に差し出した。「太陽はん、なごうかかりましたなあ。
貴方のやった事に対する恨みは忘れませんで」
……
……
今度こそ空気が凍った。
読み終えた執事の身体に悪寒による震えが走る。
「至和子から……この家の太陽さんへの手紙みたいね」
執事が一文を読み終えたのを見届けて、ホリイは腕組をしながら俯き低い声でそう呟く。
「お兄様が何故?」
執事は平静さを保とうとしているが、その表情は青ざめていたる。
「なにがあったのか知らないけれど……尋常じゃない感じだわ」
古くからの友人である闇龍の性格を知るからこそ、その文面に一筋縄ではいかない感情を感じたからこその言葉だ。
「しかし、お兄さまと至和子様との間になにか起こるのでしょうか?」
微かに震える手で手紙をテーブルにそっと置くと執事もまたホリイの方に顔を向ける。
「さあ、でも至和子がこの手紙を置いてから……私の部屋から至和子が提灯を持って
出て行くのが見えたの」
「夜中に?ですか」
「真夜中よ。そして、それから私の部屋の下で夜な夜な妙な物音がするようになったの」
淡々と紡がれる事実に執事は思わず額に汗を一筋流す。
「私は、昨日意を決して至和子その事について話を聞く事にしたわ。
そして、至和子が深夜に帰ってきてるのを見て至和子の部屋に行った。
灯りはついていたけれど何やら妙な音がそこでもしていたわ。
私は帰ろうかという気持ちを無理やり押してドアをノックしてから開いてみた……」
そこで一瞬言葉を切り、一呼吸落いてホリイは口を開く。
「いたのよ、そこに至和子の代わりに巨大な翼を広げた……黒い蝶が」
ばさばさばさと広げた翼が、ホリイの長い髪を薙ぐ。巨大な蝶の複眼とホリイの目線が合って……
「……」
「こないな蝶どすか?」
絶叫の中でもきちんと相手に言葉が聞こえるように、耳元で囁く至和子。
格好は普段の異国風の着ものではなく、白衣の姿だった。
「やあやあ。これはどっかで見た顔だと思ったら、至和子さんのご友人ではありませんか。HaHaHa」
「至和子!……に太陽さん?」
結構早い段かで平静さを取り戻したホリイは唐突に現れた二人を指さして『何故、こんなとこに?』とでも言わんばかりの顔になる。
「なんで私がこないなとにいるのか?」
「平たく言えば、彼女には私の薬の後始末を手伝って貰ってたのですよ」
「あ、後始末……?」
いい笑顔で交互に事情の解説をする二人に、思わず言葉尻を捉えるのが精いっぱいの水龍。
「お兄様、ひょっとして何年か前のエレ様の為にお造りになったと言う?」
至和子が手にしている通常ではありえないサイズの蝶を見て、執事は何かを察したらしい。
「ええ、あの時若気の至りで作ってしまったのはいいのですが、どうにも張り切り過ぎてほとんど出血サービスものの量を作ってしまいましてね。
至和子さんにはそれをなんとかする薬の研究を手伝って貰ってたと言う次第です」
「ほんに何年もかかって、しかも出来たら出来たで人目につかんように夜なかに実験や、太陽はんに恨みを抱いたくらいやで?」
笑顔に一瞬影を指しながら、至和子は片方の手にあった試験官の中の液体を蝶に降りかけた。途端に蝶のサイズはごくごく普通のサイズに戻って行く。
「それでも、彼はエレに対してそのままでいいよ。って言ってくれたんですよねえ」
ふっ、とかつての『妹』とその結婚相手の事を述べる太陽の眼鏡の奥の瞳が遠くなったようにも見えた。
「御姉様……」
執事の瞳に光るものが浮ぶ。
「そっか、至和子。そういうことだったのね……」
意外な真相を知ったホリイは、しばらくその場に佇んでいた。
―――
―――
「って解決してないじゃない」
がばりと跳ね上がるホリイ。もちろん既に深夜を廻った事を告げる時計の針より大きな音を立てる床下の音の事だ。
『がさがさがさ』
「……」
名前を音声にしたくない虫でも、ネズミでもない。もっと大きなサイズの音だ。
「……」
ホリイは、ついに意を決した。床板を剥がして正体を直に見極めるためベッドから出て着替える。
数時間後。
ベリベリと木材の軋む音と共に床板が外れ、真っ暗な闇が浮んで来る。
ホリイがランプの炎を近づけたその先には……
「あ……」
「あ見つかったでつー」
「上手く入れたと思ったのに……」
「このお姉ちゃんが酔っぱらって鍵を掛け忘れたから楽勝だったでつねー」
「……貴方達何やってるのよ?」
揺らめく灯りに照らし出された二つの小さな影。それは紛れもないパッチー宅のつくえとルートのお子様二人。この後、二人の子供を叱りつけようとしたホリイがその様子を騒ぎを聞きつけた乾達に見られ、子供たちの『虐待でつ』の言葉と共に吊るしあげられかけた事は言うまでもない。



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