天清浄 地清浄 内外清浄 六根清浄と 祓給う
天清浄とは 天の七曜九曜 二十八宿を清め
地清浄とは 地の神三十六神を清め
内外清浄とは 家内三寳大荒神を清め
六根清浄とは 其身其體の穢れを
祓給 清め給ふ事の由を
八百万の神等 諸共に
小男鹿の 八の御耳を 振立て聞し食と申す
禍霊
「天地一切清浄祓。と言うのです」
「てんちいっさいしょうじょうはらい、ですか」
小町の言葉を、風矢はそのまま繰り返した。
そのままと言っては語弊がある。よりゆっくり、より歯切れよく、より明確に。
読者にも優しい風矢君。
「その名の通り、天と地に存在する一切を清めるという意味を持ちます」
「…それはまた…」
御大層な。
苦笑の様なものが漏れかけて、それを抑える。
目の前の少女が心底本気なのは、今までの付き合いの上で解っているから。
だから風矢はそれを飲み込んで、代わりの言葉を探す。
「…それはまた…志の大きい話ですね」
「気休め、とも言います」
気遣いをぶっちぎり、少女は小さく息を付く。
風矢はそんな彼女を横目で窺い、今一度辺りを見渡した。
鬱蒼と茂る原生林。
足下には低木やら雑草やらがこれでもかと生い茂り、気を付けないと歩く事さえ困難だ。
だけどその中を、小町は平然と歩いて行く。
あの無駄にひらひらした服は、とてもこういう場所に適応している様には思えないのだが。
風矢は油断すれば顔を引っ掻きそうになる小枝を払いながら、彼女の後を追った。
事の起こりは一日前のかなた邸。
日も落ち始め、気温も落ち始めた黄昏時。
あとは夕飯を待つだけ、の、一家揃ったくつろぎタイムの出来事。
山の中から一番甘そうなものを一個取る。
重量、色、香り共に申し分無い。
何となく幸せな気分になりつつ、みかんに爪を立てたその時響いた音に、磨智はぴくんと耳を震わせた。
「電話」
「電話だな」
およそ風情の無い金属音。
早く反応しろよと言わんばかりの大音量。
しかし、その場には大勢人がいるにも関わらず、皆気付いているにも関わらず、誰も席を立とうとはしない。
「メー君が取ってよ。私みかんむいてるから」
「みかんは逃げねぇよ。お前が取ればいいだろう」
「メー君が一番電話に近いからだよ。メー君が取るのが一番合理的だと思うな」
きゃは、と背景に星が散りそうな笑顔を浮かべる磨智。
メーは「しょうがねぇな」と呟きつつ立ちあがった。
くつろぐ体勢に入った時、生き物の身体というのはただ立ち上がる事さえ酷く億劫になるものだ。
龍とてそれは例外では無く、メーの動きも御多分に漏れず鈍かった。
「はいはい、今取りますよっと。…はいもしもし。…………」
鳴り続ける電話に意味の無い声を掛けつつ電話の傍に歩み寄り、受話器を取る。
「…もしもし?…え?…うちだけど…いやあの、ちょっと」
訝しげな声。
机に残っていた家人がメーの方を窺い見る。
彼は注目を集めていることさえ気付かぬ様子で応対を続けている。
やがて気の抜けた様な声で「あー」と言うと、受話器を握った手を一同の方へ向けた。
「風矢、御指名。小町だってよ」
「え、ああ」
思わぬ名前と指名に少し焦る。
漸く剥き終わったみかんを机の上に置いたまま慌てて立ち上がった。
メーから受話器を渡され、電話に出る。
「代わりました。風矢です」
『小町です…みぎゃっ』
最近聞きなれた声…続いてなんか痛そうな音と奇声。
…いつもの調子で頭下げて、何かにぶつけたんだろうなーというのが何となく予測出来た。
微笑ましいなぁと思ってしまうのは、この女性との付き合いに慣れた証拠か。
「ダメージリポートを」
『…ぶ、無事です…家庭用据え置き型湿度計付き温度計は無事です!』
「いや、ぶつかった方じゃなくてぶつけた方のを」
『私のおでこも無事です』
「それはよかった」
ふとテーブルの方を見る。
自分が剥いたみかんが、ベムと磨智と主人とで山分けにされていた。
一瞬拳を握りかけるが、小町の声で我に返る。
『お邪魔でしたでしょうか。メイベルドーさんにも御迷惑をお掛けしたらしく』
「いえ、そんな事は。むしろどんどん掛けて下さい」
適当な事を言ってみる。
本人が聞いたら怒りそうだが、電話なので大丈夫。
『お恥ずかしながら私用で電話を掛けるというのは初めてでして。…電話の向こうには係の人がいらっしゃって、その人に頼んで繋いで貰うものだと思っておりました』
「…ああ、そういうシステムの電話もある様ですが…」
先程メーが困っていたのはそういうことか。
風矢は一人納得して頷いた。
『…それで本題なのですが、先日の…あの、お話した件について。…明日は御予定空いていらっしゃいますか』
小町の言葉で先日の出来事が蘇る。
そういえばそんな話をしていた。
そのうち何処かに出かけよう、そちらの都合のいい時に連絡を…と言った覚えがある。
明日?とわざとらしく言いながら再び机の方を見ると、主人が頭の上で大きくマルを作っていた。
磨智が目を輝かせているのも見えたが、それは無視する事にしよう。
「空いていますよ」
『それは僥倖』
電話の向こうの声がぱっと明るくなる。
その後、簡単に時間と待ち合わせ場所を決め、受話器を置いた。
後ろで待機していた面々に色々訊かれたり、約一名から呪詛を飛ばされたりしたのは、まぁ、お約束。
それが昨日。
今が今日。
今が今日なのは当たり前だ、今が明日だと訳が解らない。
…異性と二人でお出掛け。
特殊なシチュエーションだ。そういう話が大好きな磨智が食い付くのも解るくらいに。
だが、風矢はそういう意見には敢えて反意を唱える事にしていた。
男女の間に友情は成立するのか?そんな問いはナンセンスだ。
確かに性差の壁は大きい。しかし乗り越える事が出来ない程では無い。
友情が成立すれば交友を深めるのはごく当たり前のこと。
性差を恐れてそれをしないのは愚か者のする事だ。
…………
だけど。
…だけど…
「どうなさいましたか、風矢さん」
「…ちょっと現実逃避してました」
こうなるとむしろ、性差を意識する様な状況になってくれた方が良かった気がしないでもない。
風矢は小町の不思議そうな声を聞きつつ、そんな事を考えた。
「…その、なんとか御祓いも大宇宙の意思がそうしろと?」
「あ、いえ。そういうのではなく…霊道が少し淀んでいる様なので、少し手を加えようと」
「霊道?」
「…解りやすく説明する自信はありませんが…」
小町は一旦言葉を切り、ぱ、と両の掌を開いて見せた。
右手と左手に、それぞれ一つずつ光球の様なものが現れ、ぽぅっと光を放つ。
「右が精霊の力を借りた光で、左が私自身の魔力の光です。
同じ程度の力でも、精霊の力を介したこちらの方がずっと魔力消費も少ないし、何より楽です」
ぎゅっと掌を握る様にすると、魔力の光は簡単に掻き消える。
「龍のレベルというのは身体能力だけでは無い、精霊の扱いの得手不得手で決まる部分もある。そうでしょう?」
「そうですね」
「そしてその精霊というのは何も好き勝手に活動している訳では無い。ある程度の規則を持っているものです。
霊道というのはつまり、…要するに精霊にとっての案内看板みたいなもんです。そういうものがあるんだと思って下さい」
「…つまり、『規則の遵守を促す魔力の流れ』みたいなもんですか」
「…それ程きっちりしたものでも無いですが、そうです。風龍さんならよく御存じでしょうが、世の中には流れがあります。
天に風の流れがある様に、地に地脈がある様に、魔力にも、マナにも流れが存在するのです。
そしてその流れは霊道に沿って働いているものなのです」
「…………」
こくこく頷く風矢。
完全に理解出来たかと言われると怪しい気もするが。
霊道云々については解らないが、精霊やマナに流れがあるのは知っている。
それは精霊やマナ自身の働きだと思っていたが、それらにそういう働きかけをする力の様なものがあるらしい。
「その霊道が正しく働くことによって精霊の持つ力が綺麗に反映しやすくなります」
「そして今、それが歪んでいる、と」
「そうです。…傍目には解らないくらいの微々たるものですが、淀みが感じられます」
「…で、これはそれを浄化する旅であると」
「それ程大袈裟なものでもありませんが、ニュアンス的にはそんな感じです」
「…ふむ」
風矢は顎に手を当てた。
何かトンデモ珍道中に巻き込まれた様な気がしていたが、そう聞くと何だかいい事をしている気分になってきた。
根が真面目な男なのである。
「その歪みは放っておくと?」
「どんどん大きくなります。…とはいえ、ある程度歪んだら自然に元に戻っていくものなのですが」
「ある程度の周期が存在するんですね」
「はい。…それに歪みとは言っても、龍や魔物に影響を与える程の…月の満ち欠け程大きなものではありません。人間なんか気付きもしませんから。
ただやはり精霊が影響を受けるので、私達の技のキレみたいなものに影響が出たりします。しゅびっと」
小町は真面目な顔で言いつつ、しゅびっ、と口で言いながら手刀で空を裂いてみせる。
キレ、の表現であるらしい。
全体的にのほほんイメージの漂う彼女がそういう仕草をするのは…なんというか、何処か間抜けだ。
風矢はしばらくそんな彼女を眺め…わざとらしく溜息をついて腰に手を当てた。
「で、それは一体どうすればいいんですか」
「あ、えーと。この町にもいくつか霊道の交わる場所みたいなのがありまして。
そこで霊道の邪魔をしているものを取り除けばそれでいいのです」
「それで、残りは?」
「あと三ヶ所です」
「四ヶ所か…」
呟きながら空を仰ぐ風矢。
木々の間に見える太陽は、少し傾きかけている様に見えた。
季節と今日の日付から考えて…二時過ぎと言った所か。
暦的には春。風も徐々に温くなってきたし、陽も大分高くなった。
しかし…
「…じゃあ、急いで次行きましょうか」
「あ、はい」
急にやる気になった様に見える風矢に、小町は少し不思議そうに首を傾げる。
「徒歩じゃ限界がありますから。…飛んだら速いですけど、折角遊びに出たのなら楽しみたいですからね」
風矢はそう付け加える。
少女は嬉しそうに微笑んだ。
二ヶ所目は、眺めのいい山の上。
三ヶ所目は、鏡の様な海の近く。
霊道の交点には精霊が多く集まるらしい。
そして精霊が多く集まる場所というのはマナに溢れている。
人間だって、龍だって、そういう場所は好きだ。
だからなのだが、どうしても観光スポットにもなりそうなポイントが多くなる。
一ヶ所目の樹海はどうも例外だったらしい。
「おおおお」
「…………」
潮風に煽られてよろめいている小町を見ながら、風矢は性懲りも無く『知らない誰かに見られたらデートに見えるんだろうな』とか考えていた。
「…お、おおおおー」
「…いつまでやってるんですか」
「は、春の海、風強い!です!」
「…そりゃまぁ」
というか、海の近くはそれなりに風が強い。基本的に。
加えて小町の服はひらり率が高い。袴とか振り袖とか。
だから余計に風の煽りを受け易い訳だが、そうやってよろめいている小町の姿がなんだか微笑ましかった。
「今度は夏に来ましょうか」
「いいですね。砂浜で追いかけっこをしましょう。ツカマエテゴランナサーイ」
「…………」
狙ってるんだろうか、この女。
「おおおお」
そんなことを考えている風矢の視界の隅で、小町がぺしゃっと倒れるのが見える。
…いや、多分天然だ…と思い直し、一人頷く風矢であった。
四ヶ所目は、再び山の中だった。
とは言っても、町の住民が探索に入る事も多い場所の為、風矢も何度か来た事がある。
「あの湖ですか?」
「はい」
大体の辺りを付けて風矢が訊くと、小町は笑って頷いた。
銀色の髪が落陽に照らされ、オレンジ色に輝いて見える。
「…夕暮れ時の山って結構いいですよね」
「秋ならもっと綺麗なのかもしれませんけど…」
「桜に夕陽も悪く無いですよ」
「咲良に夕陽」
「…今、何か変なこと考えませんでした?」
「そっ、そんな事は」
一日であちこち歩き回り、最後に山。
人間ならとっくにへたばっている行程だろうが、人外二人はそんな事も無い。
和やかに談笑しつつ山道を登り、やがて最後の目的地に到達した。
名も無き山の中腹に広がる湖。
その透明度と滝のお陰で、町の住民から人気の観光スポット。
そしてここには限られた者しか知らない秘密がある。
「…よいしょ」
小町は湖のほとりにある、ひとかかえ程もありそうな岩に目を付けた。
とん、と手を置き、身体に力を込める。
まるで冒険映画の様に、地響きを立てて岩が動いた。
そのあとにぽっかりと大きな穴が開く。
実はとある地龍が掘ったトンネルがあり、ここを通って行くと滝の裏側に出る事が出来るのである。
因みに上記の表現だと岩自身に何か仕掛けがある様だが実際そんなもんは無く、小町が龍気功を使ってどかしたというだけの話。
「んっしょ」
小町がぱちんと指を鳴らすと、ぱっと穴の奥に光が灯った。
穴はそんなに深くは無く、精々二、三メートルだろうか。
底から更に横穴が続いているらしかった。
「では」
今度は風矢が指を鳴らす。
二人の身体が、ふわりと風の結界に包まれて浮き上がった。
結界が穴の側面に触れる事の無い様に、細かい微調整を加えながら…ゆっくりと穴の底へ降りて行く。
結界の底面が穴の底に触れる前に結界は解除され、二人はすとっと降り立った。
「賢明な判断です」
小町が頷き、風矢が当然だと言いたげに頷き返した。
このトンネルがどういう方法で掘られたかは解らないが、地龍が堀ったというのがポイントである。
地の魔力と風の魔力は相性が悪いのだ。
「…ここで最後ですね」
「はい」
風矢の呟きに、小町が答える。
二人は奥に向かって歩き始めた。
土の壁から滝の振動や落下音が伝わってくる。
土の壁とはいうもののしっかりと整備してあって、ちょっとやそっとでは崩れそうに無い。
決壊は心配せずに済みそうだった。
「…結界で決壊」
「言い訳なら聞きます」
「すみませんでした」
しょうもない事を言い合う。
やがて、会話が途切れた。
なんとなく沈黙が辛くて、風矢は口を開く。
「…邪魔してるものって」
「え?」
「霊道を邪魔してるものって!」
土壁の反響や水音で、声が伝わりにくくなっている。
風矢は声を張り上げた。
「具体的に、何なんですか!」
「…………」
小町はそっと、人差し指を唇に当てた。
困った様に笑ってみせる。
「?」
「…すみません、その話は後で」
「はい」
よく解らない単語やら概念を交えたマシンガントークを期待していた…訳でもないのだが。
彼女にしては珍しい仕草を、少し意外に思った。
天清浄 地清浄 内外清浄 六根清浄と 祓給う
天清浄とは 天の七曜九曜 二十八宿を清め
地清浄とは 地の神三十六神を清め
内外清浄とは 家内三寳大荒神を清め
六根清浄とは 其身其體の穢れを
祓給 清め給ふ事の由を
八百万の神等 諸共に
小男鹿の 八の御耳を 振立て聞し食と申す
最初は『何だそりゃ』と思った文句も、四度も聞けば耳に馴染む。
流石に丸暗記とは行かないが幾つかのフレーズをいつの間にか暗記していた。
狭い所から広い所に出た生き物の性で、風矢は両手を拡げて思いきり伸びをする。
天を仰いでいる様にも見えた。
「逢魔ヶ刻、ですね」
「はい」
昼と夜の境界。
空が薄紫に染まり、ぽつりぽつりと星明りが天幕に開いた穴の様に見える。
これから山を降りて町につく頃にはすっかり暗くなっているだろう。
「…それで、さっきの話なのですけれど」
歩きながら…小町が口を開く。
風矢は改めて彼女の方を見た。
「風矢さんは、生き物が死んだらどうなると思います?」
「…さあ、残念ながら死んだ事が無いもので」
小町の問いに、風矢はあっさりと返した。
経験が無いから解らない…便利な答えだ。
少女は困った様に笑ってみせる。
「じゃあ、生き物が生きたらどうなると思います?」
「何かの禅問答ですか」
「訊いている事は変わらないんですよ。死ぬ事もまた大宇宙の意思によって定められた生き物の営みのひとつですから」
「…………」
経験が無いから、は通じない。
風矢は少しだけ考え、口を開いた。
「影響が生まれますね」
「影響?」
「生きるということはそういうことでしょう」
生まれると、そこに存在が出来る。
存在が出来ると、周囲に影響を与える。
言葉を喋ると、空気が震える。
誰かの心を掻き乱す。
等々。
「ああ、そういうことですね。さすが聡明でいらっしゃる」
小町は嬉しそうに手を叩いた。
褒められている…のだが、微妙な気分になるのは何故だろう。
「それで正解ですか?」
「うふふ。…そう、生きるということは何かに働きかけること。何にも影響せずに生きていくのは死んでいるのと同じ」
「…正確にはそれも正しくない。…無かったのと同じ、ですかね」
「ああ、そうですね。…そしてその働きかけは連鎖する。海の上の蝶の羽ばたきが大陸で嵐になる様に。
本人が死んでも影響は残る。それにはいい事も悪い事もある…当然ですけれども」
「…悪い事、が積もり積もって…淀みになる、と?」
小町は何も言わなかった。
正解とも不正解とも言わずに…ただ言葉を続けた。
「意思の力というのは強いものですね。わたくしたちが思っているよりもずっと強い」
「…………」
「霊、というものがありますね。生き物が死んだ後、現世で彷徨うものの事を」
「…幽霊とかそういうのもお好きですか」
「私に言わせれば、あんなものは大した事が無いのです。死んだものはただ死んだだけの事。
亡霊の呪いだとか、馬鹿馬鹿しいですね。…肉体を失い、彷徨うだけのものが生前より力を強めている訳が無いではありませんか」
純粋に意外だった。
小町は風矢の感情に気付いてか、ふっと微笑む。
「死んだもの自体が力を持っている訳では無いのです。そのものに纏わる意思の力がとても怖い。
それは禍になる場合もあるし、福になる場合もある。…禍になる場合は祓う、と」
わざわい、か。
風矢は口の中でその単語を復唱してみた。
知っている単語の筈なのに、今日のその響きは何処かざらざらして不自然に思えた。
小町は息を付き、姿勢を正す。
気が付けばすぐそこに町の灯りが見えていた。
ここまで来れば羽堂邸はすぐそこ。
かなた邸とは逆方向である。
「お付き合い下さりありがとうございました」
「いえ。…こちらこそ。…興味深かったです、色々と」
小町は袖で口元を隠し、ころころと笑う。
何故笑われたか解らず、風矢は少しむっとする。
それを感じ取ったのか、小町はぱたぱた手を振ってみせた。
「貴方くらいです、そう言ってくれるのは。…気を遣って下さってありがとうございます」
「別に気を遣っている訳では無いんですけど」
「うふふ」
先程と同じ様に、小町は笑った。
ぺこりと一つ、頭を下げる。
ぴったり四十五度の丁寧なお辞儀。
そしてにっこり微笑むと、そのまま静かに去っていった。
やがて雪駄の音も消えた頃、風矢も自らの帰路に着く。
本当に変な人だなぁ。
心の中で呟いてみる。
彼女と知り合ってから何度も繰り返した呟き。
しかし、「変」と思いつつ「嫌だ」と感じない自分も何処か変であるのかもしれなかった。
そう考えると、何故だか愉快になる。
何故自分が変であるということが「愉快」なのか、その時の風矢にはよく解らなかった。
そして彼は日常に戻る。
家に着いたら質問攻めに遭う事を予想しながら。