喉が熱い。
肺が燃えるような感覚。
だけど立ち止まっている暇は無い――『奴ら』の手から逃れる為には。


85-反逆者


ほんの少し身を休める事の出来る空間を求め、少年は適当な一室に飛び込んだ。
闇に慣れた瞳には、暗い中にごちゃごちゃと物が転がっているのが見える。
物置…だろうか?
『奴ら』の気配は感じられない。
敵意は無く、そこに横たわっているのは静寂のみ。
少年は漸く安堵の息をついて、胸に手を当てた。
どくどくと騒がしい心臓は、冷たい手に触れられて少し落ち着きを取り戻す。
少し遅れて、ばたばたとけたたましい足音が閉じられた扉の前を横切るのが解った。
追っ手たちが、ターゲットを見失った事に気付くまでそうは掛からないだろう。
だが、それまで…ほんの少しでも休息が欲しい。
少年は、物影の目立たない所に片膝を立てて座った。
その瞬間、不意に気配が現れる。
しゅるりと机の下から這い出した闇は、少年の前で彼の良く知る者の姿を取った。
「…イソレナさん」
「フェレス君?」
現れたのは、苦悶の表情を浮かべる闇龍。
一瞬警戒するが、いつもと変わって何もおかしいことは無い。
「…イソレナさんは、まだ無事なんですね」
「ああ。…君は…」
「なんとか…しかし、時間の問題です…」
小声でひそひそと会話する。
その瞬間、気配も無く閉ざされたドアが開いた。
はっとしてそちらを見た二人の表情が凍る。
「見ぃつけた…」
薄笑いを浮かべる、紫色の少女。
穏やかな微笑みは廊下の蒼い光を背にして何処か不気味に映った。
「亜理紗さん…?」
「駄目です、イソレナさん。マスターはもう、『奴ら』の手に…!」
呆然とした様に、少年は彼女を見る。
フェレスがその肩を掴んで、ゆっくりとかぶりを振った。
少年はフェレスの方を見て、もう一度羽堂に目線をやる。
そんな…と、口から漏れるのは悲痛な叫びにも聞こえた。
「…さ、フェレスもいーたんもこっち来て。何も怖くなんかないから」
薄笑いを浮かべたまま、手を差し出す羽堂。
そのままじわりと一歩、彼等の方へと歩み寄る。
開け放したドアから見える向こう側、羽堂の背後に新たに数人の人影が見えた。
朱音と、かなた。
向かい合ってくすくすと、楽しそうに談笑している。
時折ちらちらとこちらの方を窺う様子がまた不気味だった。
イソレナはさっと立ち上がり、彼女から距離を取る。
と言っても羽堂がドアを背にしている所為で、部屋の奥に追い詰められていく形になるのだが。
「朱音さんも、かなたさんも…?」
イソレナの言葉に、二人はこちらを向いてにっこりと笑った。
呆れた様に、やれやれという風に、羽堂は掌を上に向けて首を横に振る。
「…私達は貴方達と違って物解りがいいですからね…。
 …諦めましょーよ、イソレナさん。諦めれば楽になりますよ。フェレスも我儘言わないの」
「うわあああ!」
叫んだのは、フェレスだった。
自棄になったのか、自らの主人目掛けて突進する。
羽堂が怯んだのが解り、イソレナも彼に続いた。
さすがに男二人に力任せの突進をされると脆い女の体ではどうしようも無い。羽堂はさっと横に避ける。
しかし、後ろで部屋の様子を窺っていた二人は羽堂よりも冷静だった様だ。
咄嗟にフェレスの前に足を出すかなた。
熱くなって周りが見えなくなっていたのか、フェレスはまともに足を取られてその場に転倒する。
朱音がすかさずその上から馬乗りになった。何やら光る尖った物体を取り出し、フェレスの首筋へと突き刺す。
ぐぅ、と小さく押し殺した悲鳴が聞こえた。
「ごめんなさい、許して下さい!」
イソレナは一時の戦友に詫びの言葉を捧げると、一同の横をすり抜け暗い廊下へと走り出した。
ばたばたと足音が去って行き…再び静寂が訪れる。
フェレスもぐったり横たわって、もう声は無い。
「…………」
羽堂は、ふぅ、と息を吐くと廊下へ出て、二人と顔を合わせる。
「フェレスさんゲットですね」
ぐっと親指を立てる朱音。
「イソレナさんには逃げられちゃいましたね」
ふぅ、と溜息を吐くかなた。
羽堂はにやりと口の端に笑みを浮かべ、彼の逃げて行った方向を一瞥する。
「大丈夫ですよ。…あっちには、咲良と火乃香がいますからね。ゆっくり追いかけましょう」
「…それにしても、これで羽堂さんち全回収、でいいんですかね?」
朱音はポケットからメモと鉛筆を取り出し、何やらチェックを付ける。
「ええ。咲良も火乃香も小町も、物解りが良くて助かります。…
 雛姫は少し手間取りましたが、まぁ子供ですからね。…今はすっかり大人しくしていますよ」
答えて言う羽堂。
朱音は、はぁ、と溜息を吐いた。
「うちは後灯磨だけ…。まぁ、エゲリアが向かってるからすぐだとは思うんですけど。
 何故嫌がるのかが解りません。…諦めて私達の仲間になってしまえば、楽になれるというのに…」
「エゲリアさんも最初は嫌がってませんでしたっけ」
「まぁ、それなりに。だけど自分が仲間になった後は、嬉々として他の子の懐柔に尽力してくれましたよ」
「…嬉々としたエゲリアさん、あんま想像できない」
苦笑いをする羽堂。続いて、かなたに目を向ける。
「あ、うちも回収し終わりました。さっき連絡が来たんですよ」
「かなたさんとこ、総出でメー君追い掛けてたんですよね…」
磨智、緋那、ベム、風矢。
全員で、どどどどど、と。
そりゃもう凄い眺めであろう。
約一名、ターゲットを追い掛ける振りして目先の女を追い掛けてる奴がいる気もするが。
「ああ、そりゃあっという間ですよね」
「磨智が嬉々としてましたね」
「そっちは物凄く想像しやすいですね。
 それはそうと、みんなでメー君追い掛けてたのに、マスターここにいていいんですか?」
純粋な疑問を投げかける朱音。
かなたは一瞬言葉に詰まり…遠い目をした。
「いや、皆が物凄い勢いでメー君追い掛けてるのをみると、自分いなくてもいいかなぁとか思っちゃって」
「燃え尽きた労働者みたいな思考になってますよ、かなたさん」
「社会の歯車って言うけど、歯車ひとつ欠けると機械って動かないんですよ」
突っ込みを入れる羽堂。
ずれた突っ込みを入れる朱音。
いつも通りの三人だった。


暗い廊下を疾走する。
天井に設置された青い光が不気味に建物の中を照らしていた。
走っても走っても、出口らしいものが見えない。
地の利の点で圧倒的に自分は不利であることを再確認する。
かと言って、自分の下調べの足りなさを怨んでいる暇は無い。
今はただ走るしか無いのだ。『奴ら』から逃げ切るまで…。
「…まぁ、大人しく逃げ切れる訳が無いとは思っていましたが」
廊下の先に、黒い影が二つ。
イソレナは立ち止まり、やれやれと溜息を吐いた。
「賢明ですね。御立派な事です」
黒い影が一つ、口を開く。
闇夜の炎の様に、ちらちら瞬く赤い瞳。
羽堂の使役する炎龍ブリギンド、火乃香の姿。
いつもと変わらぬその表情、態度、ただ違うのは、白い包帯でがっちり固定されているその両腕。
『奴ら』の手によるものだろうか…そんな目に遭いつつも、彼女に『奴ら』に対する怒りは感じられない。
むしろ、『奴ら』に迎合しないイソレナに対する非難が感じられる。
「賢明ついでに、大人しく捕まってくれたら嬉しいんだけどな」
呆れた様に溜息を吐くもう一つの影。
地龍リュコラヴォス、咲良。
二人がここで待機していたのは、考えるまでもなく彼女らの主人の指示だろう。
自分を挟み打ちにする予定だったのだろうか。
「残りは貴方だけです、イソレナさん。脳の足りない馬鹿じゃあるまいし、いい加減『ドクター』の言うことを聞いて下さいな」
黙りこくるイソレナ。
その耳にかすかに、複数人の靴音が聞こえる。
フェレスを始末した羽堂達がこちらに向かっているのだろう。
「嫌だと言ったら?」
「実力行使します」
火乃香の答は実に簡潔だった。
ずい、とイソレナの方に一歩踏み出す。
咲良もそれに合わせる様に踏み出した。
合わせる様にというよりは、両腕を封じられた火乃香を庇っている様にも感じられる。
…非常に解り易い。
二人のウィークポイントは、火乃香。
「どうするつもりですか、その両腕で!」
迷っている暇は無い。
イソレナは火乃香目掛けて突っ込む。
龍変化されたらまずいという気持ちも無くはないが、ここは室内。火乃香の体躯ではまず龍化はしないだろうと踏んだ。
人間形態の彼女なら、一発当て身を食らわせば何とかなる筈、と思ったのだが。
火乃香は彼を見据えて、くぁっと口を開いた。
向かってくるイソレナに正面から飛びかかり――その腕に噛み付く。
「!?」
予想外にも程がある攻撃に、思わず立ち止まるイソレナ。
両腕を封じられたまま、彼の腕を咥えたままの火乃香。
…物凄くシュールな光景だった。
考えてみれば彼女もドラゴン。肉弾戦での攻撃方法として、『噛み付き』を選択するのも別におかしくはないのだが…。
なんというか、普段の彼女を考えると、なんていうか、うん、ギャップが酷い。別に萌えもしない。
取り敢えず引っ張ってみる…が、火乃香の歯は腕にぎりぎり食いこんで、彼の腕を離さない。
はてどうする…と考えるまでも無い。引いても駄目なら、押してみるだけのこと。
野犬に噛まれた時の対処法だ。噛まれた時はいっそ奥まで押し込んでやると、苦しくなって離す。
ただ、今噛み付いているのは野犬では無く少女。
この状態で力いっぱい押すと、逆に甚大なダメージを与えてしまうかもしれないのだが。
ドラゴンとは言え、火乃香とは言え、少女の姿をしたものにそれは少々躊躇われる。
そして、イソレナの慈悲とも言えるその逡巡が、結果的に彼の選択肢を奪う。
咲良がもう片方の腕をがっちりとホールドしていた。
このまま火乃香に体当たり、も出来ないことはないだろうが、威力が削がれるのは間違いない。
片方の腕を少女に抱かれ、片方の腕を少女に咥えられ。
これも両手に花というのだろうか、一向に嬉しくないけれど。
「…痛い」
腕に食い込む歯に、当たり前の感想を述べる。
ともあれ今はこの歯をなんとかしないと。
振り払う覚悟を決めて、火乃香の方へ向き直る。
噛まれた腕を力いっぱい引っ張って火乃香の体勢を崩す。

その時、もう片方の腕に、何とも言い難い種類の痛みが走った。

咲良の方へ、振り向く。
ホールドくらいなら、特にダメージも無いだろうと対処を後回しにした彼女。
その手には、一体何処に隠してあったのだろうか、大きな注射器が握られていて…彼の腕にその針を突き立てていた。
朱音がフェレスに突き立てたものと同じ。
独特の痛みと共に注入される薬液。
「ああ…」
目眩がする。
「はい、最後の一人ゲット」
にやりと笑う咲良。
「生肉は嫌いよ。…うるさいし」
腕から口を離し、やれやれと首を振る火乃香。
「わーっ、これでやっと全員ですねーっ」
「咲良も火乃香もよくやったー」
「これで帰れる…」
口々に言いつつ追いついてくる三人組。
朱音が複雑な顔をしながら、くい、と親指で今来た方向を指した。
「まぁ、廊下でへたり込んだままも何ですから、戻りましょうよ。…処置室に」




「…大体、いい年して予防注射で逃げ出すって、どうなんですか!?」
「いたっ、いたたた、ちょっと痛いって火乃香」
「優しくされたいならそれ相応の行動をなさい」
ごしごしとガーゼでフェレスの首を擦る火乃香。
ここまで来ると消毒というより『擦り剥き傷を作っている』が正しい。
因みに今、封じられていた彼女の両腕は解かれ、単に両腕に包帯を巻かれているだけになっている。
そもそもなんであんなことに…というと、彼女の細い血管に問題があるのだ。
彼女に当たった看護婦が新人で、彼女の血管を探すのに大分苦労したのである。
結果彼女の腕は青痣だらけ。
その上、何故か面白がった医者が、ギプスで両腕を固定してしまうという訳のわからん暴挙に出た…
…という結果のあれだったらしい。
…訳が分からない。
その横ではカップルが、いちゃらぶな雰囲気を振りまきつつ、火乃香やフェレスと同じ事をしていた。
「全くだよ。恥ずかしいね、メー君」
「そんなこと言ってノリノリで追い掛けて来た癖に、お前…」
朝色の町唯一の病院。
朝、昼は通常業務の為、予防注射などは夜間受け付けとなる変わった病院である。
その処置室では今、数人が数人に説教されていた。
今年の龍風邪は厄介で、龍から人への感染も予測されている。ので、朝色の町は、公費で住民とその契約龍全員への予防接種を義務化したのだが…。
いるのだ、めんどくさがって、もしくは注射嫌いでのらりくらりと逃れる奴が。
そこで、数家が手を組んで結成した『注射嫌いを無理矢理病院へ引っ張っていくの会』。
期限ぎりぎりの今日、なんとかまだ未接種の数名を捕獲し、病院への連行を決行。
しかし、いよいよ接種…の順番が回って来た時、なんとイソレナが逃げ出した。
イソレナが逃げ出した事で『あ、逃げてもいいんだ?』と思ったらしい数名がまた脱走。
お陰で、なんとなくめんどくさいだけで注射を避けていた穏健派まで逃げ出す始末。
ここまで引っ張って来たのに『逃げられて無理でした』では色々気持ちのやり場が無い。
そういう訳で『引っ張っていくの会』はその場で名称を『捕獲するの会』へ変更。
病院内での大騒ぎとなってしまった訳である。
「本当普段閑古鳥の病院で良かったですね、入院患者いないし」
かなたの悪気の無い一言にドクター(公務員。当然の様に黒子)がこっそり涙するのが見えて、朱音は少し複雑な気分になった。
「龍はともかくとして、貴方が率先して逃げ出すとか本当どうなのよ…」
その傍で羽堂はぺちぺちとイソレナの頭を叩いていた。
面白くなさそうな彼。
「だって僕、先端恐怖症で」
「先端恐怖症の奴が剣振り回せるかっ!あんたただの注射嫌いだろっ!」
崖っぷちに立つのが怖いのは当たり前。それを高所恐怖症とは言わない。
腕に針を刺されるのが嫌なのは当たり前。それを先端恐怖症とは言わない。
羽堂にボロクソに言われ、イソレナは、うー、と拗ねる様なポーズを取った。
「私だって注射嫌いですよ。だけど町の義務だから仕方無いんですよ」
「住まわせてもらってる立場ですからね」
何故かうんうん頷き合っているかなたと朱音。
大捕り物の結果、友情が更に深まったのかもしれなかった。
注射が嫌で脱走した患者を捕まえる事で育つ友情。…ちょっと嫌だけど。

こうして今回の事件は幕を閉じた。
しかし油断してはいけない。
風邪の猛威が収まらない限り、第二、第三の接種はすぐ目の前に迫っているのだ。
空気が温む季節が来るまで、君たちの戦いに終わりはない。
町の義務に逆らう愚かな者を捉える為に。
頑張れ、『注射嫌いを無理矢理捕獲するの会』。



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