それは、ちょっとした口喧嘩だった。
 元々少し気が短い彼女が相手だった事も、空の雲行きが怪しくて苛立っていた事も、最近身長が並び始めていた事も、その時屋外にいた事も、全てが彼にとっては不運だった。
 ブチッと彼女の理性が切れたその刹那、彼の体は空高く舞い上がった。
 自分の身が空に投げ出された事に驚いている間にも、曇天の景色が彼に迫っていた。

 そんな光景に見覚えがあった事に違和を感じ、彼は記憶を辿って――

 迫り来る空 遠ざかる大地 身体に食い込む何か 激痛

 大きな、てのひら

「あ、あ――」

 身を引き裂くような叫びは、身を切る風にかき消されていた。



7.青 ― ある若人達の話 ―



 朝町がいくら普通とは違う環境とはいえ、食料品や家具、衣類、雑貨、書籍などの日常品を買い揃える場所くらいはちゃんとある。そこを利用する者は朝色の町の住人の全て、とまではいかないが、大部分の者が一度は利用した事がある区域である。
 その中の一人でもある111番地の風龍エゲリアは、今日もその場所に足を踏み入れていた。ただ、いつもと違うのはその店が本屋ではなく八百屋だという事である。

 普段は立ち入らないその店の中で、入口の辺りで地図か目印か無いものだろうかと、彼女はきょろきょろ辺りを見渡していた。この店の商品が、生きとし生ける者全てに必要不可欠な食品であるだけに、利用者も多い。そして、エゲリアの身長は平均より少し、少しだけ低めである。その為、見上げたり背の高いヒトの後ろを避けたりと、様々な努力をしなければならなかったので、地図を見つけた頃には既にくたくたになって、エゲリアは目的を放棄してしまいたいと、深く暗い溜息を吐いた。その時。

「エゲリア? 111番地の読書魔女エゲリアか?」

 聞き慣れない声に、一体誰だろうと眉間にシワを寄せたエゲリアは斜め上を見やって、そして思わずギョッと目を丸くした。
 目の前にはニンジンを食べているウサギがいた。正確には水色のエプロンに描かれたニンジンを食べているウサギの絵で、更にエゲリアが半歩下がりながら目線を上げると、グキッという頭蓋骨の傾きの限界を告げる音と同時に、なかなか逞しい体つきの男性と目が合った。
 見覚えのある姿に、エゲリアは少しだけ記憶を辿って、はっと思い出した。

「貴方は……。……パッチー殿の所の、ダニ殿?」
「珍しいな、お前がこんな所にいるなんて」

 その悪意無い言葉に、しかし疲れの所為で気が立っていたエゲリアは思わずムッとした。

「……私が、こういう所に来てはいけませんか」
「そういう訳ではないが。初めて見かけたからな。って、実はこの店によく来たりするのか?」
「……。……初めてですよ」

 悪いですかと眉間にシワを寄せて少しだけ頬を膨らましたエゲリアに、ダニは思わず笑い出してしまった。

「……何がそんなにおかしいのです?」
「ああ、いや……ポコスから聞いていた印象と、ちょっと違った気がしてな」
「はあ……」

 ちなみにどのような? と訪ねたエゲリアの若干冷えた目を見て、薄ら寒さを感じたダニだが、答えなければますますその視線は冷めていくだろうと思って一応口を開くことにした。

「無愛想で冷たく反応が薄い、と」
「……。左様ですか……」

 無愛想なのはお互い様ではないかとエゲリアは思ったが、家の中では冷静沈着キャラのポコスは、余所の龍にからかわれている時は反応しすぎて、更にからかわれるという事態に陥っている事を思い出して、口には出さないでおく事にした。
 不満げなエゲリアの様子をどう解釈したのか、ダニはニヤニヤというオノマトペが似合う笑みを浮かべながら付け加えた。

「実際はただの意地っ張りだという事がよく分かった」
「勝手に決めつけないで下さい」

 そう眉根を寄せるエゲリアは、やはり意地を張っているようにしか見えなかった。ダニは更に笑いそうになったが、よく見ると周りの風の流れが荒れ始めているのに気付いて、何とか堪える事にした。ダニがエゲリアを怒らせた事で商品が落ちたのだから、ダニとエゲリアの二人で弁償!……なんて事になれば、今月の食費が危ない。主人であるパッチーが戦闘系である以上、どうしても収入は少ない方になるのだ。余計な出費は無いに越した事はない。

「それで、何を買いに来たんだ? 場所が分からないなら案内してやるぞ」
「え……いえ、その」
「あまり入口で立ち止まっているのも邪魔だしな」
「……生鮮食品、と言いますか……果物の売り場まで、お願いできますか?」
「ああ、すぐ近くだ。付いて来い」
「え? あっ、ちょっ――!」

 何歩か歩き出したダニが振り返って、夕方からの特売コーナーに向かう人波に飲まれて、ダニの進行方向とは真逆の方に流されていたエゲリアを目視するまで後五秒。



「実にすみません……」
「いや……さっさと歩き始めた俺も悪かった」

 ダニは肩を落としているエゲリアの、人波に揉まれてぐちゃぐちゃになった髪をいつものワカメ的な状態に戻すのを手伝っていた。元からぐちゃぐちゃしていると言われようとも、手櫛で軽く梳くだけでも大分違うものである。
 ダニの妹だった彼女エレもなかなか髪が長かったが、その彼女と同じくらいの身長なのに更に長く量も多いエゲリアの髪は、多分クッションとかの綿の代わりにできるのではないだろうかと、彼女に言ったら火山の方に吹き飛ばされそうな事をダニは思った。
 その後、彼女が自分の買い物カゴを取ってから、二人は果物売り場の方に移動した。

「ここで良いか?」
「はい、ありがとうございました」

 ぺこりと頭を下げて、エゲリアは目的の物を探しに売り場をウロウロし始めた。ダニも、隣の野菜売り場で買う予定だった野菜を物色する事にした。
 数分後、メモしてあった野菜は全て買い物カゴに入れたダニが、ふっと果物売り場の方を見ると、ある果物の山をじーっと見つめて固まっているエゲリアが目に入った。どうやらまだ決めかねているらしい。そう思ったら、彼女は一つ二つそれを手にとって、買い物カゴに入れようとした。
 だがその時、主夫であるダニの鑑定眼が、ギラッと光ってしまった。
 ダニは早足でエゲリアのいる方に近付いて、色を見たり幾つか手に取って重さを比べたりして、やがて一番良いと思ったそれを二つ、いつの間にか隣で選別を始めていた彼に驚いて硬直していたエゲリアに差し出した。

「梨ならこっちの方が良い」
「えっ? え、あ、ありがとうございます」

 ちなみに良い梨というのは形が良く、果皮に張りがあり、同じ大きさなら重みがあるものである。また、軸がしっかりとして果皮に色ムラがなく、下の方がふっくらとして広いものが良い。ダニがエゲリアに差し出したのもまさにその言葉通りのものだった。
 エゲリアも一応知識としては知ってはいたが、普段あまりに接する機会が無いものだから、比較しようにも基準が判らなかったのである。
 彼女がそれを受け取って、既にカゴに入れてしまっていた梨を戻しているのを眺めながら、ダニは不思議そうに口を開いた。

「それにしても、何でまた梨なんて。まだ微妙に早いだろう?」
「……色々、ありまして……」

 気まずそうに言葉を濁したエゲリアに、そうなのかとだけ言って、ダニは深く追求しない事にした。



 どうもおかしい。それに気付くのは少し遅かったのかもしれないが、両手で頭を抱えたまま受け身をとる様子も見られないまま落下し続ける少年の姿を見て、流石にまずいと思ったエゲリアは精霊に頼んで彼の落下速度を落としてもらった。結局地面まで10cmまで近付いてもその体勢のまま変わらなかったので、浮遊させていた彼の体の向きを変えて、地面に下ろして様子を見る事にした。

「……炎龍殿?」
「っ!!」
「!?」

 屈んだエゲリアがゆっくりと差し伸べた右手は、しかし激しく灯磨に跳ね退けられ、元々悪かったバランスが崩れてエゲリアはその場に尻餅をついてしまった。彼のあまりの怯え方に、エゲリアはズキズキと痛む右手首を押さえる事も忘れて、ただ彼を見ている事しかできなかった。
 物音に気付いてやってきたのか、裏口から彼らの主人の朱音が早足で二人の方にやってきた。

「何かあったんですかー……って、灯磨?」
「! しゅ、しゅじんさん……!」
「うわっとっ!?」

 声をかけられた事で朱音の存在に気付いたのか、灯磨は縋るように朱音に抱き着いた。二人の体格差はほとんど無いので、危うくそのまま押し倒されるところだったが、朱音は何歩か後退る事で何とか踏み止まった。

「どうしました? と言うか本当に、何があったんですか? エゲリア」
「……その……色々揉めまして……私が、彼を上空に飛ばしたら……」
「あー……なるほど」

 朱音は軽く溜息をついて、召喚石を通じてポコスを呼び出した。仕事に入る準備をしていたらしく、Yシャツにスラックス、そしていつもは茶色のタイと黒のエプロンを付けているのだが、今はそれらを付けていない状態で彼は現れた。

「何だ朱音いきなり。と言うか何だこの状況」
「とりあえずエゲリアが手首痛めてるのでその治療お願いします。こっちは私が面倒みるので」
「ああ……で、どうしたんだ、灯磨は?」

 人型だとその内肋骨辺りが折られるかもしれないからと、実はポコスを呼ぶ前に猫サイズの龍型にされていた灯磨は、朱音の胸の辺りで抱えられながらガクブルしていたりするので、ポコスから言わせてもらえば実に羨まけしらかん状態だったりするのであった(言ったら多分中華鍋で沈められるか灰汁抜き用鍋に沈めらるので黙秘しているが)。
 正直ポコスが何考えているのかとか全然気にしていない朱音は、軽く首を傾げて困ったような笑みを浮かべて答えた。

「えーと、トラウマ再臨? 紐なしバンジーでギャー、みたいな」
「……そういう事か……」
「解りました? で、私は灯磨を部屋に連れて行きますが、エゲリアも手首痛めてるみたいなので、貴方はその治療をお願いします」
「凄くよく解った。了解」
「それじゃ。任せましたよー」

 そう言って裏口の方へ去っていく朱音を見送ってから、ポコスは少し呆れたようにエゲリアを見やった。

「……で、お前が原因なんだな?」
「決めつけですか……まあ、結果的に飛ばしたのは私ですが……」
「お前、よりによって……って、そうか。お前らは知らなかったか……」

 だったら仕方がないかな、と困ったように頭を混ぜながら呟いたポコスに、エゲリアは神妙な顔をして問いかけた。

「……何の話、ですか……」
「灯磨がどういう経緯で朱音に拾われたのか、っていう話」



「――という訳だ。分かった?」
「……はい」
「まあ、今まで全然普通だったからなー。そんな事があるなんて思わなかっただろう?」

 そう苦笑する同僚に、エゲリアは黙したまま答えられなかった。エゲリア自身、この家に来る切欠は自分が大怪我していたのを二人が助けてくれた事なのだ。自分だけ何かあったと考える方がどうかしていたかもしれないと、エゲリアは硬い表情で俯いた。
 エゲリアの右手首に超回復をかけていたポコスは、その様子を困ったような苦笑を浮かべて見ていたのだが、治療を終えると、その手を離して彼女の頭を軽く混ぜた。

「とりあえず、手首はもう大丈夫そうだな」
「……はい、お陰様で。ありがとうございました」
「どういたしまして」

 そう言ってポコスは仕事に戻っていった。エゲリアはソファから立ち上がって、その後を追うように厨房に向かった。考え込んだ所為か、それとも軽い脱水なのか、妙に頭が痛かった。
 実際は、罪悪感や怒り、不甲斐無さ、色々な感情に頭が飽和状態になっているのだが、本人がそれを自覚していたとしても、認めはしないだろう。その辺が後でダニに意地っ張りと言われる理由の一つなのだが。
 厨房に入ってから、私用の食器棚の中からグラスを一つ取って、私用の冷蔵庫を開けようとしたエゲリアだが、ふっと扉に磁石で留めてあるメモが目に入ると、取っ手を握ったまま、しばらくそれを凝視していた。



「もー、マスター。お財布の残額は確認して下さい、お札があと一枚になったら補給して下さい、って、いつも言ってるじゃないですか。困るのはマスターなんですよ?」
「あはは、すみませんでした。ついうっかり」
「そのついうっかりが多すぎますよ」

 財布を軽く放りながら歩いている朱音と、彼女に対して小言を零しているムンダーは、幾つかある金庫の内の一つが置いてある部屋から厨房の中へ入ってきた。
 冷蔵庫の扉に貼り付けておいたメモを取ろうとしたムンダーが、んん? と首を傾げた。メモの一部に、落書きというか、二重線が引かれてあったのだ。

「あれ? 何で消されてるんでしょう、というか誰が……?」

 不思議がっているムンダーに対して、朱音はニマニマと笑みを浮かべて、少し弾んだ声で呟いた。

「……梨はやめて、桃にしましょうかね」
「えっ? で、でも、マスター? 梨は――」
「桃で大丈夫ですよー。確か桃は二番目ですからね」
「で、ですが……」
「ほらほら、もう行くですよー」
「あ、ま、待って下さいマスター!」

 買い物袋忘れてますよー! とムンダーは袋を片手に、上機嫌で裏口に向かっていった朱音の後を追いかけた。



 それからおよそ一時間後。
 ガチャリ、と静かに裏口の扉が開いた。肘から先までの長さくらい空いた隙間から差し込まれた緑色の頭が左右を向いて、人影が見当たらないのを確認してから、もう少しだけ扉を開けて、家の中へ小さな影が滑り込んだ。
 扉に張り付くように移動していたので目の前にあるドアノブの下にあるつまみを回して鍵をかけようとしたまさにその時、

「おかえり、エゲリア」
「っ!?」

 家に入るまでは確かに誰もいなかった空間から響く声に、エゲリアは慌ててつまみを戻してドアノブを握って捻りかけるが、ドアノブを掴んでいる方の腕とその反対側の肩をがっしりと大きい手に掴まれてしまった。

「はい逃げない。全く、お前本当に素直じゃないよな、色々と」
「ち、地龍殿。ど、どこに……!?」
「龍型になって、扉の上の辺りに張り付いてた。流石にそこは確認しないだろうな、と思って」
「……ゴキブリの真似ですか」
「せめて忍者とかにしてくれないか?」

 いずれにせよ壁に張り付いている姿は珍妙にも程があるのだが、そこは彼自身自覚しているだろうし、想像するのも馬鹿らしいと思ったエゲリアは、ドアノブから手を離して紙袋を抱え直した。
 エゲリアは扉に背を向けてから、あまりに近くて見上げても目を合わせるのは困難だろうと、正面を向いたまま彼に問いかけた。

「……何ですか、説教ですか?」
「? 別に要らないだろ、お前なら。もう解ってることはその袋見れば判るし」
「っ……!」

 エゲリアは思わず紙袋の中身を見られないように袋の口の方を押さえたが、きっと匂いや形でバレているかもしれない。普段しない事をしたという事を気にしているのか、少し紅潮した顔を俯かせたエゲリアを見て、ポコスは苦笑交じりに口を開いた。

「俺は単純に、確実におかえりって言いたかっただけだ。気が付いたら家からいなくなってたから、心配したんだぞ」
「……すみませんでした」
「それを朱音とムンダーにも言うこと。あの二人、特にムンダーは、予定狂わされるのが苦手だからな」
「はい……」
「俺からは以上だ。もうすべき事は解ってるよな?」
「……当然です。私は、もう子供ではありません」
「そうかそうか」
「……貴方の方こそ解っていないでしょう……」

 くしゃくしゃと深緑の髪を混ぜて答えるポコスの態度に、諦めたように肩を落としてから、紙袋を抱え直して、エゲリアは厨房に向かった。



 かつてその部屋の持ち主だった光龍が遺した、数え切れない程のアルバムが並ぶ棚が異様な存在感を放っている部屋の片隅に置かれたベッドの上で、布団を被っていた灯磨はずっと震えていた。今まで忘れていたのが不思議でならないくらいの恐怖感が、忘れていた期間だけ濃縮されたかのように重く圧し掛かっていた。
 さっきまで傍にいた朱音に、しばらく放っておいてと頼んだのはちょっと失敗だったかもしれない。と、灯磨は少し後悔していた。一人でいて不安が止まらなくなるなんて、あまり体験した事が無かったのだ。大抵いつも、隣に誰かが居てくれたから。
 目を開いても閉じても思い浮かぶのは、あの見慣れない大きな掌だった。あの手が誰の手かなんて知らない。知りたくもない。ただ、手と一緒に脳裏に響いた声が鎖みたいに絡みついて心が重くなっていた。
 −−こんな雑魚誰が要るかっ!
 誰かは知らない。顔も覚えていない。今の今まで忘れていた、その存在の言葉が、何故か離れない。
 おれは……おれは、要らない子、なの……?

 コン コン

 突然響いた扉をノックする音に、ギクリと灯磨は身体を震わせた。恐る恐る布団から顔を出しながら、「どうぞ」と可能な限り声を振り絞ると、静かに扉が開かれた。

「失礼しますよ」
「! ……か……かぜ……ねえ、さん……」

 あからさまに恐怖の色を浮かべた灯磨に対して、エゲリアの反応は少しだけ目を細めるだけで、入った時と同様、ほとんど音もなく扉は閉じられた。歩いてベッドの傍に置かれた椅子に座るまでの動作さえ限りなく無音で、ほとんど日に当たらない所為で蒼いくらい白い肌も相まって、からくり人形のように見えて不気味で仕方がない。
 彼女は能面の様な無表情のまま、紙袋から果物ナイフを取り出した。

「っ!?」

 鞘に納まっているとはいえ、いきなり近くに現れた刃物に灯磨はぎょっと目を見開いた。彼が思わず布団を手繰り寄せると、エゲリアは呆れたように溜息を零した。

「……何を怯えているのですか、これくらいでどうにかなる体ではないでしょう?」

 確かに龍の体は頑丈だがそういう問題ではない。眼球の部分は弱いから刺されれば当然目は潰れるし、切れ味の良いものなら強く押し当てられれば斬られてしまう。本能的に怖いのだ。ましてや、持っているのが先程自分を襲った相手なのだから過剰反応しても当然だと灯磨は反論したかった。が、反論した時に睨まれるのが怖くて言えなかった。
 エゲリアは椅子の隣に置かれたワゴンの上に一度ナイフを置いて、そして、次に彼女が紙袋から取り出したものに、先程とは別の意味で驚いて、更に灯磨は目を見開いた。

「……姉、さん……それ……」

 灯磨の呟きを無視して、エゲリアは硝子皿と梨を一つワゴンの上に置いて、中にまだもう一つ梨が入っている紙袋をそれらの向こうに置いた。そして梨を手に取って、果物ナイフで切り分け始めるエゲリアを見て、灯磨はますます驚いた。彼女がこういう作業をしている姿なんて、一度も見る機会が無かった灯磨は、物珍しさにその様子をじっと見ていた。
 半分の半分、そのもう半分の大きさにして、皮を半分くらいまで剥いて、くの字に切れ目を入れて皮を外して、といった風にしてウサギ型の梨が出来上がっていく。

「……すごい……かわいい……」

 硝子皿一面に盛られた、多少不格好と言えなくもないがそれでも丁寧に作られた梨ウサギの群れに、思わず灯磨は目を輝かせた。
 ワゴンに置いてあった台拭きで刃を拭っていたエゲリアは、刀身を鞘に戻しながら呟いた。

「……先程は、すみませんでした」
「……え?」

 二度目は無いと言わんばかりに、そのまま持ってきた物を全て残してエゲリアは部屋から立ち去ってしまった。
 何度か灯磨の視線が梨ウサギと扉の間を往復した。そして、妙に優しかったエゲリアへの恐怖よりも目の前の梨ウサギの誘惑を取った灯磨は、梨ウサギを一つ手にとって頬張って、その瑞々しさと甘さに思わず頬を緩めた。



 梨ウサギ一皿分を食べ終えた頃、また扉を叩く音がした。
 今度は似たような硝子皿に既に切り分けられた桃とフォークを乗せた朱音だった。何か良い事でもあったのか、妙に機嫌が良さそうだった。

「やっほー。灯磨、元気出ましたか?」
「……主人さん……さっき、風姉さんが……」
「分かってますよー。私はマスターですからね。果物ナイフが行方不明でちょっと焦りましたよ」
「そう、なんだ……。おれ…………が……、……」

 ほとんど声になっていない灯磨の呟き。それでも一語も零さず聞き取れる聴覚を持つ朱音は苦笑して答えた。

「そりゃあ、慣れない事をすれば、変な顔になっちゃうもんですよ?」
「へ……変って……怒られちゃうよ……」
「大丈夫です。唯の照れ隠しでしょうからね」

 とりあえず、桃食べられそうですか? と皿を差し出す朱音に、灯磨も思わず笑みを零した。

「食べる……けど、どうして二人共、おれの好きなもの分かったの?」
「あー、私の場合は、昔貴方が来た頃に食べたいって言ってたものを覚えていただけですよ。エゲリアの方は……どうしてかは知りませんけど」

 どうしても何もメモを見たからなのだが、敢えてそこは黙っておく朱音だった。もっとも、彼が果物好きだという事を知らないと、その中でも梨が一番好きなのだと見当をつける事も出来ないだろうから、彼女も当時の事を覚えていたのだろう。
 そっかー、と納得したのか、フォークを桃に刺して頬張り始めた灯磨を見ながら、朱音は彼の呟きを反復させた。

 ――おれ、風姉さんがあんな顔をするの、初めて見た……

 怒りも忘れさせて心配させてしまうほどだなんて、一体どんな顔なのか見てみたかったなぁと、少し勿体無く思う朱音であった。



 その日の夜。
 少しは元気になったものの、まだ本調子ではなかったので部屋で夕食を摂った灯磨は、もう皿が下げられたのにする扉を叩く音に首を傾げた。
 静かに開かれた扉の向こうには、今日はもう何度も会っている彼女の姿があった。

「か、風姉さん……こ、今度は、何?」
「言い忘れた事があるのを思い出しまして」

 いつもと変わらぬ無表情で入ってきたエゲリアは、先程来た時のように静かに室内を移動して、静かに椅子に腰かけた。薄暗い中で人形に見上げられているみたいで、ちょっと怖いと思った灯磨は、ぎゅっと布団を握り締めた。
 灯磨が怯えているのに気が付いていないのか、気にしていないのか、エゲリアは変わらぬ様子で静かに口を開いた。

「貴方は炎龍ムンダー種です」
「……うん。そうだよ?」

 いきなり何当たり前の事を言い出すのだろうと、灯磨が訝しげに眉根を寄せたが、エゲリアは構わず言葉を続けた。

「難易度1。初心者が扱う龍としてはもってこいですが、交配にはあまり縁が無い。ドラゴンテンペストで強くなろうとする人にとってはあまり縁のない種族でしょうね。炎龍は足が遅い事で有名ですし」
「……。……」

 反論しようにも事実は全くその通りなので、灯磨はただ黙ったまま、エゲリアの言葉を聞いていた。彼女は灯磨の返答を期待していないのか、訝しむ様子もなく言葉を続けた。

「でもそれは私も同じです。貴方が妙にやたら敬愛している地龍殿も同じです。けれどマスター殿は、そんな私達を手元に置いて下さっています。何故でしょうね?」
「……主人さんは……優しいし……」
「どうでしょう。ただ面倒なだけかもしれませんよ。育てるのも売るのも殺すのも、全部面倒なだけかもしれません」
「そんなことない……!」

 険しい表情を浮かべる灯磨に、エゲリアは不敵な笑みを浮かべて問いかけた。

「何故そう言い切れるのです?」
「だって主人さんは、おれ達のこと可愛がってくれる……!」
「それを解っているなら、それ以上何を望むのですか?」
「……え?」

 予想していなかった言葉に、灯磨はきょとん、と拍子抜けしてしまった。
 驚かされたのは、その言葉だけではない。

「ただ傍に居るだけで喜んで下さっている。私達は彼女にとってそれだけの価値がある。
 それで十分でしょう? ただ存在しているだけなのに、それを喜ばれているのですから」

 そう言って、ほんの少しだけれど、エゲリアは微笑んで見せたのだ。
 怒りの欠片も見られない微笑みを見る事なんて二度と無いと思っていた灯磨は、驚きのあまり頭の中が真っ白になってしまった。
 すっかり呆けてしまって言葉も出ない灯磨の様子を、単に疲れているのだと解釈したエゲリアは、ゆっくり椅子から立ち上がった。

「今日は疲れたでしょう。私は疲れました。それでは、おやすみなさい」

 エゲリアが立ち去っても、灯磨は呆けたまま、しばらく彼女がいたその場所を見つめていた。



 それから何ヶ月か経って。
 例の会員制カフェの窓(開放済)から屋外へ吹っ飛ばされる灯磨の姿があった。吹っ飛ばしたのは相も変わらずエゲリアである。

「ちょっ、何か今凄い速さで飛ばされていっちゃいましたよアカリちゃん!?」
「い、いいんですか? 朱音さん」
「あはは……大丈夫です。問題ありません」

 なら良いんですが、とまだ不安そうにしているカフェの常連達に聞こえないように、朱音は軽く溜息を吐いた。

「(……なんか、もう、全然大丈夫そうですね、灯磨……)」

 良い事だけど何かつまらn……寂しいなー、と少々拗ねているマスターであった。
 最初の再発時こそ、エゲリアを軽く叱ったものだが、こうも何度も繰り返されると最早心配する気も失せていた。実際、最初の時のような反応は再発時でさえ見られなかった為、ほとんど克服したと言っても過言ではないだろう。予想よりも立ち直るのが早い事に驚いた朱音である。

 それでもエゲリアが灯磨を吹っ飛ばした後は、彼になんかしら果物を振る舞う事は習慣化していた。

 カフェから戻った後、灯磨の部屋の中でエゲリアは不服そうに首を傾げた。その手には豊作だったのか比較的安かったので購入した柿とそれを剥いている果物ナイフがある。

「……最近思うのですが。貴方、最近果物これ目当てで私を怒らせていません?」
「えっ……そんなことないよ? って、よそ見しながら刃物持っちゃダメだよ!」
「怪我なんてしませんよ」

 と言いながらも、実はよそ見をしている時は手を全く動かしていないエゲリアだったりする。それに気付いていない灯磨は、ふくれっ面をしてぶーたれた。

「風姉さんがケガしなくても、誰かがケガするかもしれないじゃんか」
「嗚呼、例えば貴方みたいな青二才とか?」
「は、刃先こっち向けないでぇっ!!」

 あの事件以降、少々生意気になってきたがこうして脅せば怯える灯磨を見て、安心からなのか呆れからなのか、とにかくエゲリアは軽く溜息を吐いて、やっぱり皮剥きと切り分けを続けるのであった。
 その様子を、微妙に開けられたドア越しに聞いている影が二つあった。

「青春ですねー」
「……青春、か?」
「若い、つまり発展の余地があるって良いですよねー、っていう事ですよ」
「いや……嫌味か? お前より大分年上の俺はどうなるんだよ、おっさんだとでも言いたいのか?」
「そういう意味ではありませんが。別に私は貴方がショタでも少年でもお兄さんでもおっさんでもお爺さんでも気にしませんし」
「しゅ、朱音……」

 朱音の言葉に思わずポコスは絶句したが、別に感動したのではなく、そう言われても困るし何か怖いと思ったからである。
 複雑そうな表情をしている彼の様子を見て、朱音は一言付け加えた。

「ただし二次元に限りますよ?」
「無茶を言うなよ」

 まるで漫才のようなそのやり取りも、傍から見れば十分青春してるように見えなくもない事に、この主従はどちらも全く気付いていなかった。



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