弓は、それだけでも音を奏で、魔除けの道具として使われもする道具である。矢もまたそれ単体で魔除けとして使われる地域もあるらしい。
しかし、弓と矢が真にその力を発揮するのはやはり、二つが一つに組み合わされた時なのだろう。
31.弓 ―撃ち合いを始めた二人の話―
111番地の料理店の中で、その店長と常連客が談笑していた。店長が持ち場を離れてていいのかという疑問を浮かべる者はこの街には、少なくともこの店内には居なかった。一つの話題が終わった頃、店長である朱音は、紫色の髪をエキセントリックにまとめた女性に話を振った。
「ところで羽堂さん」
「何ですか朱音さん」
「羽堂さんってエルフさんなんですよね?」
「エルフさんですよー?」
豊かな長い髪の間から見える細長い耳は、確かにエルフの証であった。朱音に仕えている龍達も似たような耳をしているが、それは龍型の時の耳を人間のそれのように丸くし損ねているだけである。彼女の場合は元々がその形である。
「エルフさんってことは羽堂さんもしかして弓使えたりしますか?」
「……。まぁ、一応」
凄い苦手なんですけどね、と羽堂が続ける前に朱音は勢いよく立ちあがり、その音にびっくりした彼女の手をとった。
「やっぱりですか! では是非そのお手前を見せていただきたいです!」
「え、えぇー」
めんどいなぁ、と思った羽堂ではあるが、目をキラキラ輝かせて見つめてくる朱音とその横で少し面白くなさそうな顔をしている彼女の地龍を見比べて、
「うみゅ、いいですよー」
いいややっちゃえ、と了承した。羽堂のその一言に朱音は諸手を上げて喜んだ。珍しくはしゃいでる様子の彼女を見て、ますますその気になった羽堂はよいしょと席を立った。ちなみにポコスは悟った様な少し遠い目をしている。
「では弓矢と的が必要ですね。弓矢は取って来させればありますけど、的は無いんですよね。どうしましょう」
「ちょっと傷んだリンゴならありますよー」
「おや、食材を使っちゃっていいんですか?」
「良いですよー。どうせ野鳥の餌にするつもりでしたし。あとは、その土台にうちの地龍使います?」
「あぁー……ぁぇえええ!?」
「あら、にわか雨が。」「私の予備の傘をどうぞ。」それくらい軽い口調で答えられたのでさらっと流しかけた羽堂だが、待て待てと声を上げる。しかし朱音は平然とそれを流した。
「どうぞどうぞ。強度には自信あります」
「いやいやいやいや。確かに地龍は頑丈という定説はありますけども!」
「ついでにある程度の緊張感が成功率を上げそうですし」
「極端に緊張すると逆に落ちるんじゃないかと」
「そうですかねぇ?」
そうつっこむ羽堂を見上げている朱音のキョトンとしている面持ちと、やれやれと諦めたような顔をしているポコスを見比べて、どうしたものかと羽堂は眉を八の字にした。そんな彼女にポコスが言った。
「大丈夫ですよ、羽堂さん。俺は構いませんよ」
「え、でもポコっち。私結構下手だから外すかもよ? んでもって命中しちゃうかもしれんよ?」
「仮にそうなっても大丈夫ですよ、頑丈ですから」
「うんまぁそうだろうけど……」
「それに、ここまで喜んでる彼女から楽しみを奪うのは、ちょっと……」
惚れた弱みか、あるいは従者であるが故か。困ったように苦笑するポコスを前にして、とりあえず羽堂は腹をくくってやってみる事にした。
「えーと、じゃあこの辺で」
そう言って、朱音は111番地の奥にある庭の一番太い木の前に小さな椅子を置いた。ポコスを的の台にするには少々背が高すぎるので、とりあえず座ってもらおうということになったのだ。
「……そういえば111番地の裏庭まで来るのは初めてなような」
「まぁ普段は洗濯物干してたりしてますからね。今日はもう取り込んじゃったみたいですけど」
朱音は邪魔なぁと呟きながら物干し台を庭の脇へ退かしていき、羽堂はふっと椅子の前に視線を送った。
「それにしても、なかなかシュールな格好だねぃポコっち」
「……そこはもう気にしないで下さい」
ウェイター姿の彼は、リンゴを載せた皿を頭に載せて椅子に座っていた。そこそこ顔立ちの整った彼がそういう状態でいるだけで手元が狂いそうだが、そこはどうにか堪えられそうである。朝町にいる間に多少の面白おかしい事が起きてもそれを引きずる事はあまりなくなったように思える。
「それじゃあ、始めますよ〜」
「わーい!」
「はーい……ああ、最後に羽堂さん」
「はい?」
「信じてますよ」
「最後の最後でプレッシャーかかるようなことを!」
しかも清々しいほど爽やかな笑顔である。この主従と出会ってからかなり経つが、彼のこういう笑顔はあまりお目にかかった覚えはない。朱音も少し驚いているようなので、やはり珍しい表情なのだろう。が、何しろ状況が状況なのであまり見れても嬉しくなかった。逆にちょっと怖いくらいである。別に彼は怒っているのでも何でもなく、最早悟りきっているだけなのだろうけど。
「……ええい、近くば寄って目にも見よ、エルフ秘伝の弓術を!」
「ぱちぱちぱちー」
半ばやけになってポーズをとる羽堂と、その傍で拍手をしている朱音を見て、早く終わってくれないかなぁとか思うポコスであった。
そして羽堂は呼吸を整えてから矢を番えて弦を引き、しっかりと的の林檎を見据えて、くっと顔を強張らせた刹那、
指から解き放たれて風を切った矢は、緩い弧を描いて林檎に突き刺さった。
「……お見事で「ひゃあああっ! 凄いです! 羽堂さん凄いのです! って……大丈夫ですか?」
羽堂が矢を離すと同時に飛んだ先の方を見ていた朱音は、ふっと横を見て初めて羽堂がその場に座り込んでいるのに気がついた。
「……緊張しました……何か、ものすごーく体力を使ったよーな気がします」
「あや。赤まむしドリンクでも飲みますか?」
「…………あおちゃん」
「冗談です。確か、家の中にフルーツケーキがあるのですが、召し上がりますか? 今日の我が家のおやつなのですけども」
「おおぅ、いいのですか?」
「勿論ですよ〜。わざわざ見せて頂いたお礼ですっ」
ちょっと待って下さいーと裏口から中に入っていく朱音の背中を見送ると、羽堂の前に手が差し伸べられた。その手が生えている方を見ると、反対側の手に林檎の乗った皿と矢を持ったポコスがいた。
「大丈夫ですか。起き上がれそうですか?」
「あら、ありがとうポコっち」
「いえいえ」
若干背後が心配ですけどね、と少し口元を引きつらせながらも、ポコスは彼女の手を取った。立ち上がった羽堂が何を心配しているのかと訊くと、
「何でもないですよ、杞憂ですから。多分」
と、誤魔化された。少し羽堂が口を尖らせると同時に朱音がケーキとティーセットを乗せたお盆を片手に戻ってきた。
「ただいま戻りました〜。で、羽堂さんはミルクティがお好きでしたよね? セットでサービスいたします〜」
「おおう、本当にいいんですか?」
「ですよ〜」
「ではではお言葉に甘えて。ありがとうございますー」
「いえいえ、それはこちらの台詞ですよー」
裏庭にあるテーブル(普段は洗濯物籠を置いたりしている)にお盆を置いて、朱音はお茶の用意を始めた。座る椅子はと言うと先程ポコスが使った椅子があったのでそれを使うことにした。
羽堂が座って待っている間に、ポコスは林檎に刺さって濡れた矢を拭いたり、使った林檎を手で割って枝に刺しまくったりしていた。そのまま放置していると、朝には綺麗に無くなっているらしい。食べているのは本当に野鳥なのだろうかと一瞬緑色の食欲旺盛な彼を思い浮かべて、いやいやまさかと羽堂は軽く首を振った。
「あぁーでも良いですねぇ。私こういう武器に触れる機会あまりなかったのでどきどきしましたです」
「ふみゅ……そんなに気になるのでしたら、やってみます?」
「えっ、良いんですか!?」
「いいですよん。構えてみるくらいならすぐできると思いますし」
「やったー! 羽堂さん大好きです〜!」
朱音に抱きつかれながらも私もですよ〜と答える羽堂だが、ちょっぴり遠くの地龍の視線が痛いとも思ったり。そんなに睨むくらいならさっさと寄って来てべりべりと剥がしてしまえば良いのに。それができないからこその彼なのだろうけれど。
「えっと、こう、でしょうか?」
それから数分後、朱音は多少は覚束ないが、それでも形だけはそれなりに弓を構える事ができていた。
「そうですそうです。そんな感じで」
「あとはこの手を離せば、ですか」
「ですよ。でも気を――」
つけて、という羽堂の言葉を風の音と紙袋が破けるような音が遮った。それらが鳴り響いた後、非常に気まずい沈黙がその場に広まった。
一瞬何が起きたのか、三人とも分からなかった。ポコスは両手を首の正面で合わせて矢を白羽取りしていた。普通の人間ならまず喉元に矢が突き刺さっていただろうが、龍である彼はそこそこ反射神経も良かったのでそれを避ける事に成功したらしい。
朱音は構えから矢だけを取った状態で固まっていたし、羽堂も注意しようとした矢先だったので口を開けたまま凍っていた。
その中で一番状況を把握するのが早かったポコスが、ゆっくりと手を下ろして口を開いた。
「朱音……何か、俺に言うことは?」
「え、えーと……」
地を這う様な彼の声に肩を震わせた朱音は、困ったような笑顔を浮かべて首を傾げながら答えた。
「貴方のハートを、狙い撃ち?」
「首元狙っといて何言ってんだお前は!」
「狙ってませんよ! ちょっと手が滑っただけですよ!」
「その割には結構こっちの事しっかり見てたよな。俺がこっちにいるの分かってたよな」
「ぎく」
動機がどうであれ、首元だろうと心臓だろうと致命傷になり得ることに変わりないんじゃ、というツッコミを羽堂が入れる間もなくポコスが朱音の下に駆け寄った。
「しかもさりげなく矢に魔力込めやがって本気でやる気だったな!?」
「え? え、いやそこまではしてませんよ!?」
「んじゃどこまではしたんですか?」
「とりあえず彼を的にしようかと思った辺りまでは」
思っただけで別に射抜こうだなんて思ってはいなかったのだが、一瞬だけ手元が狂ったのだ。より正確に言うと、いうことをきかなくなった、のだけれども……それが何故かを語り始めると色々突っ込んだ話になるので、朱音はそれを黙っていた。おおかた“彼女”が妙な嗜虐心を起こしたのだろう。
「ほほうじゃあ何で矢が真っ黒になってんだ?」
ポコスが差し出した矢は墨に浸かったかのように真っ黒だった。朱音が弓に矢をつがえたその時までは確かに普通の木と鉄と羽根製の、素材そのままの特に加工も何もされていない矢だったはずなのだが、どういうわけか彼の中にある矢は鏃から矢羽までしっかり黒くなっていた。
もっとも“彼女”が干渉したということは、“彼女”が朱音の魔力を使って何かをしたということに他ならないので、その余波で矢が染まってもおかしくは無い。だがそれを解っているのはこの場では朱音ただ一人である。
「……えーと、摩擦熱?」
「だったらさっきの羽堂さんが放った矢だって黒こげだろうが」
「ですね……で、でも、わざとではないですよ、本当に」」
「……本当に?」
低い声でそう言うポコスがじぃっと半眼で見つめると、それまでひきつりつつも普通の表情を浮かべていた朱音の顔がくしゃりと決壊した。
あ、やばいと彼が思ったその時には、朱音は既に彼に背を向けて走り出していた。
「本当だってばあああ! ごめんなさいいいぃっ!」
「あっこら待て朱音!」
全速力で走り出して(あのエプロンドレスで良くやるなあと羽堂は半ば感心したが)植え込みを飛び越えて外へ行ってしまった朱音を、しかしポコスは数歩だけ追いかけて止めてしまった。全く、と溜息と共に肩を落として、羽堂の座るテーブルの前に戻る。
「……追っかけないの?」
「今は接客の方が先ですから……それに、彼女の家はここですからいずれ帰ってきますし」
「……それは随分とお仕事熱心ですね?」
「これでもチーフですからね」
軽めの皮肉に応えて軽く肩をすくめて苦笑する彼は、珍しく、少し後ろめたそうに見えた。羽堂がミルクティを口元に運びながらそんなポコスを見ていると、その視線に耐えられなかったのか、彼は苦笑して更に言葉を続けた。
「……まぁ、あまり逃げられている姿を見たくないというのもあるんですけどね」
「あぁー……そういえば、最近よく朱音さんが貴方から逃げているような」
「……色々ありまして。その所為か、カフェに連れて行かれる事も無くなりましたし」
「だから最近呼ばれてなかったのですね……ちょっと咲良が寂しがってたなー。いつでも会えるには会えるけど、何かなぁって感じで」
「そうなんですか? ……多分それを朱音に言ったらすぐに呼ばれると思いますけど」
「……朱音さん、咲良のこととても可愛がってますもんね。なんででしょう?」
「真面目で照れ屋な女の子が大好きなんですよ、朱音は」
成程、確かにその条件に咲良は十二分に当てはまっているだろう。それにしたって彼女ばっかり、という気もしなくもないが。
「それと、朱音は自分を一番にはしない人を可愛がるんですよ」
「……ほほう」
「自分はいつも一番にはなれないと思っているから、それを証明してくれる存在を大事にしようとするんですよ。まぁ、それだけじゃないでしょうけど」
だからこそ彼女は俺から逃げるんだろうな、とポコスは内心思った。理性ある者にとって、理解できない存在は恐ろしい。動物だって計り知れないものは恐ろしい。自分を一番に愛そうとする存在なんて彼女は受け入れられないのだろう。少なくとも、今はまだ。
「んー……ポコっちも結構大事にされてると思うけど?」
「……あー、まぁ、いつもこうじゃありませんからね」
なんだかんだで大事にされているのだろうと、彼自身解っていない訳ではない。むしろ一番の従者として信用を寄せられていることをもどかしく感じると同時に嬉しくもあったから。
それに、たとえ彼女に怖がられていても、それで傷付く心はもうなかった。そんなことではもはや傷付きもしなくなった。少し前から、彼はそんな風に開き直っていた。
「朱音さんちの龍と言えばポコっち、って感じだもの。もっともっと自信持ってみたら?」
「あー……頑張って、みます」
頑張って逃がさないようにしてみます。と言いかけて、途中で彼は言葉を変えた。あまり積極的になり過ぎると逆に引かれるかもしれないと思ったから、と言うよりは、多分そんな遠くに行っていないであろう自分の主人に聞かれたらますます警戒されそうだから、というのが大きい。
「うみゅ。みんな応援してますからね」
「……あまり期待されるとプレッシャーになるんですが」
「でしょう」
さっきまさにそうだった羽堂はこっくりと頷いた。そんな彼女を見て、やっぱり自分はあまり攻めない方が良いんだろうかとポコスは思った。別に周囲を気にして自分を蔑ろにするつもりはないが、周りに引かれるほど強く出ても多分朱音は落ちないだろうから、二人きりの時以外はこれまで通りでいるべきなのだろう。これまでヘタレな様子ばかり見らていた所為か、あまり強気な自分は周囲に受け入れられていないようだし。
「まぁ……いつか、落としてみせますよ」
さっき彼女が自分を射抜き損ねたように、あっさりとはいかないだろうけど、いつかは、と薄く笑みを浮かべるポコスだった。