朝色の町ではない、この世の地図には名前も記されていないどこかで。
 烏の濡れ羽色の髪の、少女と言っても通用しそうな可愛らしい外見の女性がこくりと頷いて、真摯な光を灯した黒い瞳で言った。

「――なるほど、それで今は『昊陽』と『恒磋』なのね」
「そう。なんでかは知らないけど、よく似た名前よね……別に良いけど」

 黒髪の女性に答えた金髪の女性はその澄んだ青色の瞳を曇らせて、溜息混じりにそれに答えた。その彼女の発言に、黒髪の女性の隣にいた赤毛で長身の男性が、真紅の瞳に苦笑の色を浮かべて言った。

「良いんだ……相変わらず、素直じゃないんだな」
「ほっといて」

 三人――正確には三匹、闇龍エレボスのエレと炎龍メティラゴスのメティー、そして光龍タラニスの昊陽は、いわゆる井戸端会議をしていた。



3.貴方 ― ある恋人達の話 ―



 そこは、地上での生活に幕を下ろした者、命という蝋燭を使い果たした者が存在している空間。『天国』とか『あの世』とか呼ぶのがふさわしいであろうその場所で、たまたま遭遇した三人は、長いことその場に座って『下』にいた頃の話をしていた。語り手は主に最近まで『下』にいた昊陽であったが。

「ところで、その恒磋はどうしたんだ? 別行動してるのか?」
「え? あー、まあ、そんな感じ、かな……」

 問いかけるような二人の視線に、言葉を濁していた昊陽は両手を挙げて降参の意を示した。困ったように眉根を寄せて彼女は告げる。

「ちょっと、ね。置いてきちゃったのよ」
「「……え?」」
「だから、置いてきたんだってば」
「「置いてきた!?」」
「なによ、そんなに変?」

 じとりと二人の方を訝しげに見つめる昊陽の目は、別行動くらい当たり前じゃない、と物語っていた。『ここ』に来てからはほぼ四六時中一緒に行動しているメティー達とは大違いだ。同じ恋愛結婚の筈なのに(少なくとも昊陽は政略結婚だとか、愛の無い結婚だなどとは口にしていない)、この温度差は何だろうとエレは首を傾げた。メティーはこちらも相変わらず限りなく一方通行なのかなーと苦笑した。

「と言うか、大丈夫なの? ちゃんと恒磋さんと合流できるの?」
「さあ?」
「さあって……」
「ずーっと『下』ばっか見てて、下手したら害虫とっちめに行きかねないバカなんて私の知ったこっちゃないわよ」
「害虫……女の子なのか、君らの子も」

 本来永久に生きる事が可能である龍が『ここ』にくるに至る経路は、大まかに分けると二つしかない。契約をして、その主人の下でドラゴンテンペスト(通称ドラテン。一対一の試合形式で龍同士が互いに技を掛け合い、相手に与えたダメージが大きい方が勝ち。)などである程度経験を重ねて限界を迎えるか、連れ合いを見つけて子孫を残すか、である。ここにいる二組(一組と片割れ)はどちらも後者であった。メティーとエレには火乃香と火乃影という双子の娘が、昊陽と恒磋には秋桜という娘がいる。

「そう。秋桜って名前なんだけど、あの子、あいつに似て結構バカ正直って言うか、素直って言うか……目を離せないんだろうな、ってのはわかるんだけどね? それでも限度ってもんがあるでしょう?」

 昊陽はぶつぶつ呟きながら地面(?)をべちべち叩いたり、ごすごす殴ったりしている。……意外に拗ねているのかしらとエレは首を傾げ、意外と両想いになっているようである事にメティーは少し驚いた。まだ彼らが『下』で生活していた頃は、もっぱら爽やかな笑顔で、しかしかなりの速さで走っている恒磋と、彼から何とか逃れようと必死に走っている昊陽の姿ぐらいしか見かけなかったから。

「まったく、ちょっと私が大人しくしてるからってほったらかしてデレデレしちゃって……」
「……でも、好きで一緒になったんでしょ? 信用してないわけじゃないでしょ? 愛が無いわけじゃないんでしょ?」

 エレの言葉に、ぴくりと昊陽の指先が震えたのは二人の目の錯覚ではないだろう。昊陽は両膝を立てたその上に組んだ腕を乗せて、所謂体育座りに座り直してから、何かを睨むように顔をしかめながら呟いた。

「アレよ。道端に捨てられてて放置するにも良心が痛むから飼い始めた犬を、最初は足に纏わりつくわ飛びついてくるわ吼えるわ散歩したら爆走し始めるわで、うっざーと思っても、ある日突然居なくなったら寂しく思うようなもんよ」
「……つまり、情が移った、って事?」
「そう。ただそれだけよ」

 うんうんと頷いている昊陽の様子はまるで自分に言い聞かせているようである。事実そうなのかもしれないが、あまり深い付き合いをしていた訳ではないエレやメティーは推測しかできなかった。

「それだけ、ねぇ……っていうか今更じゃないか? もう夫婦なんだろう?」
「……そうね。今更でしょうけど……だからこそ、なんかね、まるで自分が光源氏になっちゃったみたいで嫌になるのよ……」
「え、何で?」
「あのバカが来て、最初の……二週間くらいかしら? うちに来た恒磋がこの家に慣れるように、私が色々教えたり一緒に遊んだりしてたのよ。でもあいつがドラテンの当番になってから、あっという間ににょきにょき伸びて私を越したわ。そして言動が私の理解を超え始めちゃったのよ……」
「……まあ、そういう恋のアプローチって、最初はビックリするものだよね」

 メティーは妻との馴れ初めを思い出して笑みを浮かべた。エレも思い出したのか徐々に顔に赤みが増している。

「ビックリどころの話じゃないわよ! 私いつどこで選択肢間違えたの、ってかなり焦ったし……まあ……最初から間違ってたって言えば間違ってたみたいなんだけどね……」
「最初?」
「ん、その……どうも、一目惚れだったらしいのよ」
「へえ……でも、それは誰にもどうしようもなかったんじゃない?」
「そうね、それはわかってるけどね……」

 一目惚れと言えど、彼が本気だったのは誰の目にも明らかだった(むしろ、あそこまでしつこく追い回し愛の言葉を宣言しておいて遊びだったと言われたら、昊陽は本気で地の果て、いや海の果てに殴り飛ばしていただろう)。
 それでも、やはり昊陽は時々不安になるのだ。本当に自分は、彼が語る程愛されているのか。
 溜息を吐いて膝に顔を埋めた昊陽に、エレは声をかけた。

「でも、今はもう旦那さんなんでしょ? 素直に好きって認めちゃえば良いじゃない」
「だ、旦那って……一応、そーだけど……私から言わせてもらえば、やっぱりバカで変態ですっとこどっこいでキザでカッコつけな恥知らずよ……まぁ、ここにくる頃にはちょっとは男ま「ぃぃいいたあああああああっ!!」

 瞬き一つ程の間に、どこからともなく絶叫と同時に現れた銀髪金眼の男が、昊陽に横からタックルを食らわせるように抱きついた。

「うぎゃああああああっ!?」
「んぶだぁっ!」

 昊陽は反射的に抱きつかれた側の腕で肘鉄をかまし、反対側の手で男の額に拳を食らわせた。少し吹っ飛ばされた男は横になって鳩尾付近と額を押えていた。男はしばらくピクピク震えていたが、やがてゆっくり上体を起こした。
 素早く立ち上がって臨戦体勢をとった昊陽だが、彼にしてはいつになく真剣な目でじっと見つめられ、少しうろたえつつ、何とか声を張り上げた。

「いっ、いきなり何すんのよこのバカ!」
「昊陽嬢こそ! 何故、こんな遠くまで移動しているんですか!? 僕がちょっと『下』覗いている間に姿が見えなくなってすっごくすっごく焦って心配して動悸息切れが止まらなくてっ、すっぐぉおおく探したんですよ!?」
「“ちょっと”? 朝日が出て空のてっぺんまで昇っちゃうまでの時間が“ちょっと”ですって!? 声かけてもつっついても反応返さなかったあんたが悪いのよ!! って言うか突撃してくんの止めなさいって言ってるでしょう!? あんたね、立派に一生終えたんだから、いい加減行動を改めなさいよ縁切るわよ指輪投げるわよ!?」
「えええええっ!?」

 男――恒磋の主観では雨降って地固まって、最後は周りも呆れる程のラブラブカップルになれたはずなのに、天国(?)に来てしばらく経った今になって離婚を迫られた恒磋は思い切り叫んだ。昊陽は冷ややかにその様子を見ていたが、それに彼はめげる事はなかった。

「で、ですが、それでもこればかりは……僕の溢れる愛は治まりません! 治める気もありません!! 貴女を一日一か……三回はぎゅっと抱き締めないと僕の胸は張り裂けてしまいます!」
「あんたの理性はぷっつん切れる春雨並みか! その辺はもう少しあのヘタレを、あんな無自覚で生殺しな攻撃に健気に耐えてる姿を見習いなさいよ!」

 その頃『下』では、あのヘタレこと現在意中の相手以外の住人達(特に店の常連達)には知れ渡ってしまった恋心を抱いている地龍ポコスが、その意中の相手である主人、朱音に輝くばかりの笑顔でいじられまくってた。いつもの事だがそこそこ精神ダメージを食らっていたポコスには、くしゃみをしたくなってもする元気が無かった。
 閑話休題。

「僕の理性は鉄壁ですよ! それを、それを貴女の美しさと愛らしさと凛々しさが、鎮めようとしていた僕の愛の炎を燃え上がらせて溶かしているんじゃないですかっ」
「それのどこが鉄壁だって言うのよ!?」
「……本当、相変わらずみたいだねぇ……」
「むしろ、エスカレートしてるような気もするわ……」

 突然の恒磋の登場に驚いて固まってしまい、会話から取り残されたメティーとエレは、彼らから少し離れた所で囁き合っていた。
 それでも龍の発達した聴覚には察知できたのか、恒磋はふと二人の方を見遣った。

「……あれ? そこにいるのはエレメティご夫妻ですか?」
「エレメティ言うな、もうメティエレだ!」
「え、そういう問題なの!?」
「お久し振りです……と言っても、こうしてちゃんとお話しするのは初めてじゃないかしら?」
「そう、ですね。昊陽嬢以外の女性とは、極力一対一でお話しないようにしていますから」

 死んだ今でも進行形なポリシーらしい。実際今も一対一ではなく、互いにパートナーがいる状態である。

「大体ね、私は元々自由奔放に自分が行きたい所に行きたい時に行く性格なのよ! 何が何でもあんたの傍にいなきゃダメなんて強要されるくらいなら転生してやる!」
「大丈夫です、転生先にも絶対付いて行きますのでご安心を!」
「……何を、どう安心すれば良いのかしら……? そういえば、夫婦のどちらかが先に転生した場合、保険が下りたりするのかしら?」
「さあ、どうだろうね……」

 また始まったか、とメティーは少し遠い目をした。正直そんなのどうでもいいじゃない、と思うけれど、下手に反論するよりはスルーする方が楽である。
 エレとメティーの間にゆったりまったりした時間が流れている間にも昊陽と恒磋は口論(と言う名の痴話喧嘩)を続けていたので、ふとまたその会話に意識を向けると、大分話は進んでいた。

「解りました。元々貴女を束縛するなんて大それた事出来ませんからね。ですが、二つだけ条件を出させて下さい」
「どんな? 自分に必ず声かけて行け、とか、一緒に連れて行け、とかだったら、ちゃんと守れるかわからないわよ?」
「大丈夫です。それは僕が自分で気付いて探しますから、今回のように」
「そう、じゃあ何?」

 だったら何でさっきはあんなに騒いでたのよ、と睨んでいた昊陽の視線を感じたのか、恒磋はちょっと視線を逸らして一つ咳払いをする。そして、すっと昊陽を真っ直ぐ見て、これまでで一番真剣な顔で、彼は言った。


「指輪だけは絶対に捨てないで下さい」


 昊陽は拍子抜けたように肩を落として、目を見開いた。

「……あの、まさか……さっきの、気にしてた?」
「あれを気にせずに、一体何を気にしろと仰るのですか」
「はー……バカね」
「なっ」
「わかったわよ、これまで通り、ちゃんとつけてあげるから。そんな硬い顔しないでよ」

 その言葉に安堵の溜息を吐いた恒磋に、昊陽は全く、と呆れた視線を送った。そもそも“投げる”とは言ったが“捨てる”とは言っていないのだ。恒磋から贈られた白金製の指輪は、そのままで少しサイズが合わなかったとしても昊陽にとっては大事な物だった。何せ昊陽が彼から貰って受け取ったものと言えば、(耳にタコが出来て有難味を感じられない)甘い言葉と、(思い出す度に頭が痛くなったり気恥ずかしくなる)思い出と、この指輪くらいなのだ。
 恒磋から他に贈り物が無かった訳ではないのだが、(宝石よりも何よりも昊陽嬢が一番美しいのに、その彼女一体何で飾れというのだろうかという苦悩が原因で)大抵が花束で、素直でない上に自他共に認める野生児だった昊陽は、自分には似合わないと受け取らなかったのだった。

「それで、もう一つの条件は何よ?」

 腕を組んで少し不機嫌そうだが、少し顔が赤い昊陽に真っ直ぐ見つめられた恒磋は、真っ赤に頬を染めて、胸の辺りを押えながら、恥じ入るように呟いた。

「……そ、の……二人で、いる時は……あなた、って呼んで下さい」

 しん、とその場から音と言う音が消えていった。いっそ互いの呼吸や鼓動まで聞こえそうな程の静けさだった。
 昊陽の返事を待っている恒磋と、もはや傍観者モードに入っていたエレとメティーからの視線で、フリーズしていた昊陽は再起動された。それでも驚いている事には変わりなかったので、ようやく出た声も擦れていた。

「…………はぃ?」
「あるいはダーリンでも我が背の君でも良いです。旦那様なんて贅沢言いません。お父さんって呼ばれるのはちょっぴり複雑ですが、昊陽嬢なら良いです。お願いしますっ」

 地面に張り付くような土下座をしている恒磋の後頭部を、呆けたように(実際呆けているのだが)見つめながら昊陽は彼に、恐る恐るといった感じに声をかけた。

「……あんた、バカじゃないの? 大丈夫? 走りすぎて頭の中ぐちゃぐちゃプリンになっちゃったりしてない?」
「やめて、プリン食べられなくなっちゃう……」
「豆腐じゃあないんだ……?」
「だ、だって、僕と貴女は恋人同士なんです! 夫婦なのですよ! 僕だって、いちゃいちゃと呼び合いたいとか思ったりするんです! たまには、“あんた”以外の呼び方で呼ばれたいのです……もっと、こう、甘い空気を味わいたいんです……」
「あ……あんたねぇ……」
「……昊陽嬢〜っ……」

 顔を上げたものの、眉を八の字にした上に涙目になっている恒磋を見て、昊陽は深く深く溜息を吐いた。その肩を、ぽん、と叩く者がいた。
 昊陽は肩越しに振り返り、視界の下の方に黒いものを見つけて、視線を落とした。昊陽の目をじっと見据えてエレは言う。

「昊陽さん。貴女はさっき、貴女の我侭を通しちゃったんでしょ? なら、彼の言い分も聞かないと不公平じゃないかしら?」
「う゛……でも、そう言われてもねぇ……」
「簡単じゃないか。たった三文字。“あなた”と“あんた”なんて、ちゃんと発音するかしないかの違いだろう?」
「……書いたりするだけなら、音の上だけならそうかもしれないけどね……」

 意味合いと言うか、その言葉に籠められる感情が少し変わる気がするのよ、と昊陽はぐるぐる考えていた。
 あなた。唯の二人称として用いるなら問題は無い。少し改まった場にいると思えば、その場に相応しい使い方なのだからと抵抗無く使える。
 だが、今まで散々蹴ったり殴ったり何かぶつけたり投げ飛ばしたり蹴飛ばしたり踏んづけたりと、気兼ねなく遠慮なく等身大の自分でぶつかってきた相手に対して、いきなり丁寧に接しろと言われてもできないのが昊陽だった。何やら妙に照れ臭い上に、逆によそよそしいのでは、と思ってしまう。
 しかし、三方向から期待と叱責と好奇の視線に雁字搦めになった昊陽は、それから逃れる為に口を開いた。


「あ、あ……あ゛……あー……あな、あなた……?」

 プツン

 小さな呟きに応えるかのように、何かが切れる音がした。
 さて、人は倒れる際、ドラマなどではよく足元から崩れ落ちるように気絶するか、既に気絶した状態で発見される事が多い。
 実際には、頭から倒れていく。そして、その時の音は、どさ、という音ではなく、

 バンッ!!

 そう、ちょうど、このような音である。その音の大きさに、三人は驚いて肩を揺らした。残る一人は音も何も頭の中に入ってはいないようだった。
 その一人――恒磋の顔の中心辺りからどくどくと赤い液体が流れていた。ぎょっとした昊陽は慌てて駆け寄った。

「ちょっ、恒磋っ!?」
「もう……死んでも良い……」
「は!? ちょ、何馬鹿言ってんのよ!? しっかりしなさいよアホーッ!!」

 叫びながらがくがくと恒磋の両肩を揺らす昊陽だが、その行為は気を確かにする為だろうが、鼻血を流している人相手にすべき行為ではないという事には気付いていないらしい。
 そんな二人を、エレとメティーは何とも言えない面差しで見ていた。

「……一応、もう死んでるのに……」
「うん。と言うか、鼻血、凄いなあ……」
「わ、私の方がもっと凄いわっ」
「……エレ、そこは張り合わなくて良いからね?」


 ちなみに恒磋がの意識がはっきりしたのは、それから何時間も後だったそうな。



back