『クロ君って、「てふぇち」?』
ドンがらがっシャンっ!!
あ、クロ君がカップ一式落とした。
幸いポットとかお湯の入っていたものは隔離済みだったので大事には至っていないようだけれど、どうやらカップとソーサーは全滅みたいだ。
『大丈夫? 手でも滑ったの?』
そう問えば、ぎぎぃっとからくり人形のような動きでクロ君はこちらを見る。
『……エレノアさん、いったい何処でそういう言葉を覚えたのですか?』
『だって、ここ最近私の手をぼーっとしながらずっと触っているし。
 私の手を目で追っている時あるし。
 そのことを真夜さんに行ったらそう言ってた』
『……そうですか、店主が』
ぶつぶつと何か低い声で言っているけれど、食器を片付ける音にまぎれて良く聞こえない。
一通り片付けた後、改めて運んできたカップをお湯で温めながらクロ君はきっぱりと言う。
『俺はそういう趣味ではありません。
 確かに貴女の手は綺麗だと思いますが、俺が好きなのはエレノアさんそのものです』
すらすらとそんなことを言われてしまった。ああ、なんだか頬が熱い。
思わずクロ君から視線を逸らすと、そっと髪を撫でられた。
『エレノアさんの一部であればこそ、手も髪も…全部美しい、愛しいと思えるのです』
そのまま流れるように手が私の頬に触れてくる。
促されるように頬を撫でられ、そろりと視線を上げれば、甘い笑顔のクロ君と目が合った。
ああ、なんだか耳まで凄く熱い。熱に当てられたように頭も少しボーっとする。
『分かって頂けましたか?』
くすぐるように頬を撫でながらのクロ君の言葉に素直に頷くと、クロ君は『それは良かったです』と言って身を引いてくれた。
ドキドキとはねる心臓をなだめようとこっそり深呼吸をする。
何とか耳が熱いのと心臓のドキドキが少し落ち着くのを待って、先程から持っていた疑問をクロ君に聞いてみることにした。
『所でクロ君、「てふぇち」って何?』
『……意味が分からないで言っていたのですね』
こくり、と頷けば、あからさまにほっとした顔をする。
『ねえ、どういう意味?』
クロ君は少しの思案の後、にっこり笑ってぽんぽん、と自分の膝を叩く。
『おいで』
『……それって、教えて欲しければ来いって事?』
笑顔のままクロ君は何も言わずにこちらへと手を差し伸べる。
二人きりだし、まあ良いか。
私は座っていた椅子から立ち上がり、素直にクロ君の膝の上に横座りする。
肩口に頭を預ければ、支えるように体にクロ君の腕が回った。
『フェチというのは、フェティシズムの略です。
 人類学・宗教学では呪物崇拝、経済学では物神崇拝と訳されます』
『じゅぶちゅ崇拝?』
『呪物です。まあ、噛み砕くと、凄いと思うものを崇め奉っていると言う感じですね』
『え〜っと、クロ君は手を崇拝しているって真夜さんに思われたの?』
そう問えば、にっこりとクロ君は笑った……のに、なんとなく黒い?
『ですが、俗説的に言われている意味は、大抵心理学的な意味が多いのです』
『…………』
聞かないほうがきっと身の為だと思う。
けれど、クロ君はこちらが無言な事を良いことに、私の手を取りながら言葉を続ける。
『心理学では性的倒錯の一つのあり方で、物品や生き物、人体の一部などに性的に引き寄せられ、性的魅惑を感じるものを言います』
ばーいうぃきべでぃあ、と笑みを含んだ声でクロ君は私の手に唇を寄せる。
手を振り払おうと思っても、クロ君の視線は私の目から外れず、まるで絡め取られたように体が動かない。
ちう、と音を立てて薬指の付け根を吸われ、そのままなぞるように舌が這って行く。
『あああああのねクロ君』
『ん?』
上ずる私の声に、クロ君は行為を止めることなく楽しそうな声で返事を返す。
『ま、まだ私たちお見合いしてないよっ!?』
その言葉と同時に、かり、と指先を甘噛みされた。
『ひゃぅっ!』
『ええ、分かっていますよ』
あううう、ゆ、指を銜えたまま喋らないでぇぇぇ!!
『ですから、今はまだ……』
ちゅっ、と音を立てて私の手から唇を離す。
『これだけで我慢しますよ』
にっこり、と擬音が付くくらいの笑顔を浮かべられて、本当は文句を言いたいのに言えなくなってしまった。
とりあえず顔を直視するのは恥ずかしいので肩口に顔を埋めてみる。
クロ君はクスクス笑いながら、そっと抱きしめてくれた。
『クロ君のえっち』
『これでも男ですから。据え膳は美味しく頂きます』
『意味分からないよぅ……』
『分からないなら、分からないままで居てください』
小声の抗議も何処吹く風で、クロ君は楽しそうに笑い続ける。
これ以上何か言っても無駄なのはよく分かったので、話題の変更も兼ねて、最後の疑問をぶつけることにした。
『クロ君がてふぇちじゃ無いなら、どうしてこの所ずっと手を見ていたの?』
そう問えば、ぴたりとクスクス笑いがやむ。
急な変わりようにクロ君の顔を覗き込めば、ほんの少し困ったような顔をしていた。
『……本当はもうちょっとシチュエーションを吟味したかったのですけどね』
はあ、とため息をついて私を抱き上げて立ち上がるり、元居た椅子の上に私を下ろす。
そしてそのまま彼の私物が色々と置かれている机へと向かい、引き出しを開いた。
私の位置からはクロ君の背中が邪魔をして見えないが、何かごそごそと取り出しているみたいだ。
振り返ったクロ君の手には白い布が一枚。
彼は無造作に私の前に跪くと、先程クロ君が悪戯していた手を取る。
思わずびくりと体を震わせると、『今日はもう何もしませんよ』と苦笑された。
うう、でもさっきあんな目にあったのだから仕方がないと思う。
動揺する私をよそに、クロ君は丁寧に私の手を布で拭いていく。
薬指は特に念入りに拭かれて、妙にくすぐったかった。
『これが、理由ですよ』
そんな宣言と共に、私の手から布が外された。
布の下から現れたのは、丁寧に拭かれた私の手と……薬指に嵌められた、蒼い石の飾られた綺麗な指輪。
『エレノアさんのサイズに自信がもてなくて、つい大丈夫かなぁと目で追ってしまっていたのです。
 ゆるくはないですか?』
『ゆるく、ないよ。凄くぴったり』
そっと触れれば硬い感触。
私は迷わず自分の頬に手を伸ばす。
『って、急にほっぺ抓ってどうしたんですかっ!?』
『夢じゃないかなぁって思って』
思い切り抓った頬は凄く痛かった。目に涙が浮かぶくらい。
『夢なんかじゃないですよ』
そう言って、クロ君は私の頬を大きな両手でそっと包んでくれた。
『店主から、3日後にお似合いを行うと言われました。
 それはそれまでの間の虫除けです』
『虫除けって……私そんな必要ないよ?』
『全く、貴女はご自分の価値が分かっていないのですね』
はあ、とクロ君はため息をつくとこつんと額を合わせてくる…って顔近い顔近いっ!!
『貴女はまるで蒼い薔薇の様に稀有で美しい。
 蕾の時の貴女も十分なほどの美しさでしたが、華開いた今、いつ誰が手折ろうと手の伸ばしてもおかしくないほどなのですよ』
クロ君の甘い声が耳朶を打つ。
毒を耳から流し込まれた様に、頭と体が痺れてクラクラする。
そのまま唇をふさがれ、深く深く貪られる。
頭はクラクラ、手も足も力が入らずにクタリとクロ君に体を預ける。
『俺以外に貴女がこんなことされたら、俺は正気ではいられません。
 だから、俺を安心させるためにも受け取ってくれますね?』
その言葉に、私は考えるより先に何度も首を縦に振ったのだった。






おまけ
『店主っ!
 エレノアさんに変なこと教えないでくださいっ!』
「え、違うの?
 前に私の手好きだって言っていたじゃない(にこにこ)」
『……分かっていて言っているでしょう』
「当然。
 指輪作りたくて相手のサイズを知りたいのは分かるけど、相手に悟らせるような行動をとるなんてまだまだだね。
 それとも、真実を私の口から言ってよかった?」
『手厳しいですね』
「うちで私が男前と認識しているのはジェントだけ。
 テルもクロも私から言わせれば十分ヘタレ」
『それ、偏見入っていません?』
「それはセクハラで誤魔化そうとして失敗したクロの気のせい」
『……まさか俺の部屋に盗聴器とか仕掛けていないですよね?』
「そんな趣味ないから。クロが分かり易過ぎるだけ。
 ところで、エレノア嬢の指に例の指輪あったけど、良かったの?
 お見合いの日に渡すんじゃなかったっけ?」
『いえ、アレは虫除け用の婚約指輪です。
 結婚指輪は別に作ります』
「……ああ、そう。頑張って(遠い目)」



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