そのおとが、私を私で居させてくれる。



暗い、暗い闇の中。
「逃げなければ」という感情のまま、腕に絡む付く何かを振り払って、息を切らせながら走って走って走って。
その内足を踏み外して落ち、肩と腰を強かに打った。
痛みをこらえて立ち上がり、怪我の状況を確認しようと視線を手や足に向ける。
だが、夜の帳よりも濃い黒に、汚れているであろう手も足も服も…自分の境界線さえも見えなくなってしまっていた。


「――――?」
遠くから聞きなれた声が聞こえる。
澄んだ女性の声。
他の女性の声も聞こえるが、内容は良く分からない。
肩に暖かい感覚がした気がするが、全部が凄く遠い。
ああ、あの声の所に行けば安心だ。
訳もなくそう思って、声をたどるようにして歩きだした。
――いつの間にか、逃げなければ、という強迫観念は消えていた。


空気の動く気配と共にいくつかの足音。
「――さん?」
今度は違う女性の声。落ち着いた、静かな声。
『……る……たい……』
「さっき……から……」
「この…だと、カ………」
低い男性の声と、先程聞こえた女性達の声が聞こえる。
不意に浮遊感がして、濃かった闇が少し薄くなった気がした。


額にやさしい温度を感じる。
「熱は……みたい……けど」
その声と共に優しい温度は離れていく。
それが寂しくて、その声の方を見ようと努力する。
「―やさん?」
ゆっくりとした、穏やかな声が聞こえる。
目を凝らすと、其処に何かの輪郭と、動く影が見える気がする。
けれど薄くなったとはいえ闇はまだ濃くて、その影が何なのかが全く分からない。
途方にくれて足元に視線を落とせば、視界に入ったのは闇ではなく、ここ最近で身に馴染んだ白いエプロンと水色のスカートだった。
気がつくと、自分の姿が見えるまでに周囲は明るくなっていた。


「―夜さん、起き……?」
「なん…かまだ……寝て………ですね」
「そろそろ……た方が……」


音が、先程よりもずっとはっきりと聞こえる。
けれども意味を成す言の葉には聞こえない。
一度は明るくなった周囲に再度闇に覆われそうになった瞬間。


『いい加減起きろ馬鹿真夜!』


不意打ちで耳に飛び込んできた明瞭な言葉と、額へと鋭い痛みを感じて一気に意識が覚醒した。



「痛った〜」
『カフェで寝るな大馬鹿。
 寝起きが悪い自覚あるのか?』
ズキズキと痛む額を押さえて周囲を見渡せば、其処には呆れた眼差しをこちらに向けるアランと少し離れたテーブルの所にカフェの常連たちが居た。
「びっくりしましたよー
 カフェに来たら真夜さん床で熟睡しているんですから」
『羽堂が肩をゆすっても起きないから、どうしようかと相談していたら丁度朱音さん達がいらっしゃって』
「床で寝ていたら風邪ひいちゃうと思ったので、ポコスにソファーに移動してもらいました」
「その少し後に来たら、あまり良くない顔色で寝ていらっしゃったので熱でもあるのかと思っておでこに触ったら、起き上がったのに此方の声に反応なくて」
『フェレス兄さん経由で連絡貰って迎えに来たら、座って目を開けたまま寝るという事をやらかしていたからいつものように起こしたんだが、何か文句でもあるのか?』
「……いえ、ないです。
 本当にご迷惑をおかけしました……」
次々と衝撃の事実を告げられ、頭を抱えたくなる。
そーか、腰や肩が痛いのは床で暫く寝ていたせいで、額の激痛はアランの容赦ないデコピンのせいか、なるほど。
成人女性として色々終わっている事をやらかしてしまったという事実から逃避するようにそんな事をつらつら考える。
この所寝不足気味だったとは思っていたけれど、まさかこんな所で熟睡するとは思っていなかった。
「そういえば、何か嫌な夢でも見ていたのですか?
 眉間に皺がぎゅーっと寄っていましたよ」
こんな感じで、とかなた様が指で眉間にしわを作ってみせた。
「夢……」
可愛いなぁ、と思いつつゆっくりと見ていた夢を反芻してみる。
……あれ?
「どんな夢だっけ?」
『俺に聞くな』
ついノリで隣にいたアランに聞いたら冷たく突っ込まれた。くそう。
「ああ、目が覚めたら夢忘れるって良くありますよねー」
「目が覚めたのでしたら、こちらで一緒にお茶飲みませんか?」
「あ、はい頂きます〜」
とりあえずソファーから離れて皆の居るテーブルに向かう。
「あ、でも一つだけ覚えていますよ」
「え、どんなことですか?」
「皆様が出てきていました。声だけでしたけど」
「私達がですか?」
「どうも夢現で聞いていたみたいです。中身までは分かりませんが」
言葉の意味も何も覚えていない。
けれど、確実なことは覚えている。
皆の声が私の名前を呼んでくれた事は。
アラン以外の声は夢の中ではうまく認識できなかったけれど、今ならきちんと分かる。
それぞれの声が呼んでくれた名は、耳に馴染んで凄く安心できた。
――照れくさいので口には出さないけれど。
「そういえば、最近何か夢見ました?」
誤魔化す為にそう言えば、其処から話の花が咲き始める。
楽しそうな笑顔と笑い声、時折入るツッコミと。それぞれの声が耳に優しく響く。
此処は、何に気負うことなく自然で居られる。
「私」で居られる。
この町に来てよかった。
心からそう思いながら、話の輪の中に入って行った。



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