―――それは、今から少し昔の出来事。
細身とはいえ男のものである身体をなぜかフリルで彩られたドレスを着てうなだれる少年に、少女は実に複雑な眼差しを向けていた。
「地母神っているじゃない。たいてい一番最初のおかーさん的な神様。で、大地とかの神様なんだよね。あれってさ、豊穣とか安産とかそういう素敵なものをつかさどっているんだけど、なんか嫉妬深かったり妙に心狭かったりもするんだよねえ…いや、場所によっては神様って皆そんなもんとして書かれてるんだけどな」
「……それがどうしたんだよ」
「…大地に属するものを怒らせると怖いなとマスターは思いましたとさ」
軽い口調で告げられた言葉に、メーは大きく息をつく。
今日も126番地は平和だった。
地母神
126番地お気楽主従がそんなやりとりをしていたりしなかったりしているその頃。
111番地でもまた、ある主従―――主に従者の方が複雑な心地で主人を見つめていた。
ふわふわと揺れるのは、腰のあたりで一本にまとめられた朱色の髪。
キッ、と空を睨むのは、くりっとした瞳。
従者から見れば随分と小柄な身体をめいっぱい使って手を伸ばす彼女のその指先に触れるか否かのところには―――
洗濯物。
ああ、いつかもこんなことがあったな。思い返し、こみ上げる諸々の感情を飲み込むポコス。
いつもはムンダーがとりこんでいるそれを、なぜか今彼女が取り込もうとしている。
それはいい。
踏み台でも使えばいいのに使わないのか。使わないのはなぜだろう。みえないなにかと戦っているのだろうか。使ったら負けだ、みたいな。
それにしても―――小さいよなぁ。
手も肩も彼より一回りほど小さい。中背に属するのだと分かっていても、自分から見ればそう見える。
腕の中にすっぽりと入りそうだ。
脳内に浮かんだ独自に、ポコスはぶんぶんと頭をふる。そういうことを考えるのはやばい。色々とやばい。それこそいつも洗濯物を干している彼女のようにあれこれ口に出してしまうとは思わないが、どこから洩れるか分からないのだから。
もしもばれたら………
ばれたら―――のその先が、彼にはまだ想像できないでいる。だからこそ。だからこそ、ばれるわけにはいかないのだ。
胸をかすめるどこか鬱屈した痛みに、彼は小さく頭をふる。
そうして気持ちを切り替え、未だに手を伸ばし続ける彼女を手伝おうとし、
「朱音さん、これをどうぞ」
「あ、踏み台ですか。ありがとうございます」
いえ、と僅かに微笑む闇龍に、先をこされた地龍はそのまま固まる。
非常にきつくなった眼差しを受けたことに気付いたかのように、惣闇はそそくさとどこぞへと消えた。
「あれ? ポコス」
「ああ」
小さな箱に乗りながら肩越しに振り向く主人に、ポコスは軽く手を上げる。
そのまま彼女の傍らまで歩くと、ごく自然な姿勢でひょい、と干された洗濯ものの一つを回収する。
「…余裕綽々ですね」
「…そりゃあ、な。このくらいは低い」
答え、軽く頷くポコス。
全部このくらい余裕を持って臨めたならいいよなぁ、とか思ったり思わなかったりしつつ。
内心をさっぱり悟らせないいつも通りの従者の顔を見上げて、朱音は僅かに眉を寄せる。
それは、彼との身長差をまざまざと見せつけられたからでは、ない。
「ポコス」
「なんだ?」
「なにかありましたか?」
無思考シェフが聞いてあきれる、気遣わしげな色のある瞳。
『ありましたか?』と訊いているわりにやけに確信に満ちた口調。
箱一つ挟んでもなお低い位置にあるそれらに、ポコスは僅かに目を細める。柔らかく、苦笑する。
「悪いな。俺が機嫌悪そうな顔してるのは元々だ」
「なるほど、機嫌が悪いのですか」
「例えばの話だ。別に悪くななんてない」
「そんな例を出すこと自体、それを考えている証拠だと思いますが」
なおも続きそうな声に、彼は僅かに肩を落とす。
そうして、
「…本当になんでもないよ」
少し、その言葉の語気が強まった。否、強まったというよりは、まるで。
「……」
聞くなと告げる声を聞いた気がして、朱音は続けようとしていた言葉を収める。
「分かりましたよ」
素直にそう言いながら、内心で言葉を続ける。
口を閉じても、心までが閉じたわけではないから。
だから。
ああ、やっぱり。私は貴方になにかを隠されている気がします。
じわりと広がる寂しさに、焦げた紅色の瞳は僅かに細められた。
妙な沈黙の中残りの洗濯ものを回収しつつ、ポコスは小さく胸の内だけで小さく呟く。
言われる気がした。
あのまま会話を遮らないでいれば、言われる気がした。
何年貴方の主人をやっていると思ってるんですか―――そんな言葉を、言われる気がした。
主人。そう、彼女は主人で、自分は従者。そのことに不満があるわけではない。あるのは―――従者の枠で収まらなくなった想い。
傍らの少女が主人以外の意味を持ち始めたのはいつだろう。誰かにさらわれることを想像するだけで胸が黒く潰されるような痛みを覚えるようになったのはいつだろう。
ああ、それでも。
その瞬間と理由が分かったとしても、自分は同じ茨道に足を進めるのかもしれない。
そうして、こんな思いを繰り返すのかもしれない。
口に出せない気持ちをかみしめながら、ポコスはただ手を動かす。
洗いたてのシャツも、目の前の空も、彼の悩みなど関係なくのどかに明るい。まだ高い位置にある太陽は、地面へ恵みの光を注ぎ続ける。
その明るさに、彼は僅かに息をついた。
それは、今から少し前の出来事。
大地の恩恵遠き場所、宙をさまよう想いの話。