それは泡沫の幻。
 過ぎ去った日の思い出の一欠片。
 白い白い盲目の闇、そのほんの一欠片の紡いだ一時の幻の話―――

 −白い世界−

「うー……」
 小さく呻いて、男の子は目をあけます。
 その目に飛び込んできたのは、、白い世界でした。
「…なんだ、これ…」
 見渡す限り白い。目がくらみそうな、白いだけの空間。見上げた空もまたまっ白です。
 けれど、ぽっかりと浮かぶ太陽だけには、色がついています。
 いいえ、他の誰かならそれを太陽と呼ぶのもおかしい気がしたでしょう。太陽は、絵の具を溶かしたような青い色をしています。
 けれど、男の子にとっては太陽で、同時に月なのです。
「…あ」
 男の子は、白い世界の中に、異なる色を見つけました。綺麗なブラウンの毛皮のウサギさんです。
 ウサギは、真っ白いワンピースをきてどこかへとかけていきます。男の子には見向きもしません。まるで見えていないかのようです。
 ウサギは…ひどく悲しそうな、諦めたような顔をしているように見えました。

「…なに、あれ…」
「兎、どすえ」
 呆然と呟く男の子に、やけに雅やかな女性の声がかかります。
 男の子はぎょっと目を剥いて振り返りました。声の印象にたがわぬ、実に涼しげな黒髪の美女がいます。
「あ、あんた、誰、つかいつから!?」
「ついさっき…と言っておきましょか」
 黒髪の彼女はそう言って、にっこりと笑います。
「そして、とりあえず今は“ちゃっしゃ猫”どすえ」
「…はぁ?」
 とりあえず今はってなんだ。
 あんたのどこが猫なんだ。
 言いたいことがいくつか浮かびましたが、男の子は口に出しません。それより早く、自称チャシャ猫が口を開いたからです。
「貴方は、今からあのウサギを追いかけないとあきません」
「…はぁ?」
 先ほどと同じ、間の抜けた言葉を、男の子は先ほどより訝しげに紡ぎます。
「なんでんなことしなきゃならねんだよ」
「さて。それは私の口からは教えられませんなぁ」
 ふふ、と上品に笑うチャシャ猫に、男の子は眉を寄せます。
 どちらかと言えば女狐って感じだな。
 失礼なことを考える男の子の思考を読んだように、チャシャ猫はすぃ、と指を掲げます。
 特になにを思うこともなく白い指を眼で追った男の子は、その先に扉を見つけます。
「さぁ。行きなはれ」
「………」
 しばし悩んで、男の子はゆっくりと歩き出します。
 ここにいても仕方がないし、自称猫は少しだけ苦手な気がしたからです。
 淡々と足を動かす男の子を眺めながら、自称猫はにっこり笑います。
 猫というよりはそれこそ兎のような赤い瞳を細めたその笑顔は、やがてその体ごとどこかに溶けました。


 言われるままに歩いた男の子は、示された扉を通りぬけ、そして新しい扉を見つけました。  扉がある。
 それはいいのです。けれど、それはあまりに小さすぎる扉でした。
 小さな小さなその扉は、男の子には通れそうにありません。
「…ぶちこわそーかな」
 男の子には、そのくらいならできる力がありました。
 けれど、そこまでしてあのウサギを追う必要はない気もします。
「…っつても、いつまでもここにいるわけにもいかねえけどなぁ…」
 ならやはり壊すべきか。男の子は小さく首をひねります。
 先に何があるかは分かりませんが、ここになにもないのだけは確かです。
 ―――なにもない?
 いえ、そうではありません。ぐるりと見渡せば、テーブルに小さな小瓶がありました。
 その瓶には、脇に紙片も置かれています。曰く。
 『 ワタシヲ オノミ 』
「…嫌だよ」
 男の子は小声でつっこみます。こんなわけのわからない場所にあるビンの中のモノなど飲みたくありません。身の危険を感じます。
 だから、怪しいビンを無視することに決め、ぐっと拳を握ります。壁を壊すためです。
 男の子はその拳を振り上げ―――その瞬間。
「ちょっと待ってください」
 男の子はぴたっと制止します。そのまま振り向いて、声の主を探しました。
 声をたどった先には、箱がありました。大きな、人が一人くらい入れそうな箱です。
 なんだ、と呟く前に、箱が開きます。
 出て来たのは、青いバンダナをまいたお兄さんです。
 男の子はぱちぱちと目を瞬かせ、首をかしげます。いつのまにこのお兄さんは現われたのでしょう。
「…なんか、用?」
「迷える少年を導きに来た…ってとこですかねぇ」
「は?」
 露骨になに言ってんの、あんた、みたいな顔をする男の子に、箱の中のお兄さんは瓶を指さします。
「飲めば通れますよ」
 にっこり。
 お兄さんは微笑みました。
「…なんで通れるんだよ」
「飲むと縮むからですね〜」
 男の子は驚いたように目を丸くして、すぐにぶんぶんと首を振ります。
「…そんな得体の知れないもん飲みたくねえよ」
「そんなことを言わずに。飲んでも大丈夫ですよ。…たぶん」
 にこにこと微笑むお兄さんは、ずいっと瓶を差し出してきます。
 一体いつテーブルの上にあったそれを持ってきたのだということも不思議でしたし、中身の見えない黒いビンなのが一層不安を煽ります。
「いや、普通に壁壊した方が早くねえ…?」
「短絡的な考えは損をしますよ」
 にこにこと微笑み続けるお兄さんに、男の子は溜息をつきます。言い争っても無駄な気がしたからです。
 そして、覚悟を決めると、ごくりと瓶の中身を飲み込みます。
 不思議な液体は甘いとも辛いとも言えない不思議な味です。強いて言えば水に似ていますが、意味不明な液体がそんなものに似ていても怖いだけです。
 ―――のんだよ。
 男の子はそう言うつもりで、口を開きました。けれど、その瞬間、みしみしと体のきしむ音を聞きました。
「……え?」
 男の子は驚きの声を上げます。それもそのはず、その体は、人の掌にのってしまうほどに小さいです。男の人入りの箱も、その表面しか見えません。
「ちょ、なんだ、これ!?」
「それで通れるでしょう?」
 お兄さんはにっこりと笑います。心配ないとでも言いたげな笑顔です。
 そして、すいと指をさしました。その先にあるのは、扉。
「………戻れるのかよ、これ」
「ええ、そのうち」
「そのうち…」
 がっくりと肩を落とす男の子は、それでも諦めたように歩き始めます。
 後ろを振り返ることはありませんでした。



 男の子はさらにてくてく歩きます。なにしろ体が小さいので、並大抵の努力ではありません。
 んでこんな苦労してウサギ探してるんだかなあ、と思いながらも、歩くことはやめません。一種の自棄かも知れなかったのでした。
 歩いて歩いて力つきそうになった時、小さな瓶を見つけました。蓋はどこかにいってしまったのか、開いた瓶口からは、奇妙に甘い匂いが漂っている気がします。
 小さな、といっても、それはいつもの男の子ならそう思うと言うだけです。その時の男の子からすれば、身の丈と同じくらい。とても巨大に見えます。
 その小瓶もまた、先ほどのものと同じく真っ黒です。ですが、男の子は今度はそれを不気味とは思いませんでした。瓶がある。 つまり、何か入ってる。瓶に入っているのはきっと飲み物だろうなあ、と男の子は思いました。いいえ、思ったというより、願ったというべきでしょうか。その喉はからからに乾いていたのです。
 ほんの少しだけ躊躇って、瓶を倒します。そして、そこからこぼれた液体を手で掬い、ごくごくと飲みます。歩きづめで疲れた喉に、その味を確かめる余裕はありません。一心不乱に飲みまくります。
 すると、みしみしと体のなる音を聞いた気がしました。
「…え?」
 呟く間に、その体は元の大きさに戻っていたのでした。
 どうして、と不思議に思いましたが、追及するほどのことでもありません。
 男の子は気を取り直して進むことに決めました。

 ―――ちなみに。
 その小瓶の製作者であるお兄さんは、箱の中で首をかしげます。
 いつのまにやら、箱にいれていたはずの小瓶が消えています。
 落とした覚えはないいけれど、どこにいったのでしょう。
「…まあ、ちょうどいいかもしれませんね…」
 誰かが拾っていていたとしても、大丈夫でしょう。
 意味ありげな笑みでお兄さんが呟いた瞬間、男の子はくしゅりとくしゃみをしたのでした。
 ぐしぐしと鼻をくくりながらも歩き続けると、鬱蒼と茂っていた森が開けます。
 なんだろう。
 思い、そっと木の蔭から伺うと、酒の匂いを感じました。
「…なに、あれ」
 テーブルをかこんでいたのは、二人の男の人でした。どちらも黒い髪をしていて、良く似た目鼻立ちをしています。
 ですが、その反応は正反対です。
 襟の詰まった服を着ている方は、なにやら笑い続けています。うふふふふふふふふフフっふふふフふふフと笑い続ける様がちょっと怖いです。
 長いコートを着た方は、そんな彼から身を一歩引きながらも、彼の言う言葉にいちいち反応していました。ちなみに、その横には笑い続けているほうよりよほど酒瓶が積み上げられています。
「だからなあ、フェレスよ、好きな人がおる時は兄ちゃんに言わんといかんからな」
「はいはい」
 とても投げやりと言うか、聞き飽きた言葉を聞く風な男の人の言葉でしたが、男の子には少しだけ羨ましく見えました。
 その状況ではなく、兄弟という響きが、です。
 ああいっそそうであれば楽だった―――そう思う相手がいた気がします。
 男の子はぽつり、とその名前を呟きます。
 いっそ兄妹ならば、やっかいなことになどならなかったのに。家族と言うカテゴリにくくって、なんの問題もなかったのに…
 思いながら、その体はずるずると沈みます。
 酒の匂いによったように、男の子は目を閉じました。




 目眩を感じて目を開ける。
 飛び込んできたのは、眩い光。
 そして、見知った声。
「―――みっけ」
「…………あ?」
 間の抜けた声を出し、メーは小さく瞬く。
「おま…なんで…」 「なんではこっちのセリフじゃないの?
 なんでこんなとこで寝てんの」
「あー……」
 自分の状況を確認し、メーは小さく首を振る、眠気から逃れたいかのように。
 確かに「こんなとこ」と言われても仕方がないところで寝ている。
 草むらの中、地べたに転がってるだけだ。
 逃げ疲れて寝たんだなあ。
 そこまで思いだして、彼はびしっと顔を引きつらせる。
 そう、自分は逃げていたのだ。
 なにから? 誰から?
 この目の前の地龍から。
「―――こんなとこで寝てたってことは、これ着てくれるってこと、だよねv」
 ふりふりエプロンドレス片手に迫ってくる彼女から逃げ回っていたのだ。
「今回はアリス風に仕上げてみたよ。すごく自信作だなv」
「知るか!」
 言って、メーは立ち上がる。そのまま逃げようとして…一瞬ためらう。
「なに? 変な顔して」
「…なんでもねえよ」
 夢の中、追いかけていた白ウサギ。
 追いかけて追いかけて、結局追いつけなかった、ウサギ。
 あのウサギは、きっと目の前の地龍だ。
 ―――なぜ追いかけていたのだろう。
「…なんでもねえよ」
 もう一度繰り返す。きりきりと痛む胸を忘れるために。
 じっと伏せた瞼の裏の闇に、その痛みは溶ける。僅かに芽生えた疑問もまた、とろけていく。

 彼がその後アリスルックで泣くことになったのは…まあ、お約束言うか、一種の様式美だった。




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