今でもよく覚えている。忘れるはずがない。
砂漠に落ちた一滴の水のように。
その存在は、心を潤した。
砂漠で求める一滴の水のように。
この上なく、甘く感じた。
砂漠 −些細かもしれない努力の途中−
それは、ある晴れた秋の日のこと。
朝色の町にある、鮮魚を扱う店の一角。
二つの手が、今が旬と輝くサンマへ伸びた。
二つの手は、重なったまま動こうとしない。ただ、それぞれの手の持ち主は、お互いを見やった。
どちらともなく、ああ、と呟く。
「ダニさん、でしたね。どうも」
「あんたは126番地のヒナ、だったな。こちらこそどうも」
互いに頭を下げ合う。
片やシンプルなシャツを身に付けた少女、片やマコンドラっぽいニンジンをぱくつくウサギさんの絵が描かれたエプロンを身に付けた青年。
一見接点のない二人は、互いに目にしたことくらいはあった。
互いの主人が何度も手合わせをしているから、その付き添いやらなにやらで、面識はあった。
だから。
「お宅もサンマか?」
「ああ、旬だからな」
言い会って、二つの目は最初に手にしようとしたさんまへ戻る。
重なり合った手の下にあるのは、張りのあるツヤツヤとした体。その全身をぴしりと覆う鱗が、こちらを見返す瞳の澄んだ色が、それが美味しいものだと告げてくる。
どうせ食べるなら美味しいものを。どうせ同じ金なら、美味しいものを。
互いに家の台所を預かる二人の、思うことは同じ。
しかし、手を放したのもまた、どちらともなくのことだった。
「こちらのサンマも中々いい」
「いや、そっちよりはこっちの方が鱗剥げてないな」
熱く語り合う二つの瞳は、『赤貧』という名の仄暗い炎がちらつきながらも、きらきら輝いていた。
その、しばし後。
「外からモノが入ってこなくなると、つい献立がマンネリかしがちで…」
「聞く限り、そうとは思えないけどな。
しかし、例えば、スライム和えは和える材料を変えれば繰り返してもいける」
「ああ…いいな。和えものといえば、ゴマを添えるとぐっと印象が変わる」
主婦と主夫は互いのレパートリーについて語り合っていた。
その様は、楽しげというより、熱心。
どこまでも熱く情報を交換し合う姿を見る瞳があることに気付かないくらい、彼らはその時熱中していた。
「妬けないの?」
別行動をしていた緋那を見つけてから、その熱いやり取りを見つめる磨智は、意地悪い口調で問いかける。
「君じゃあるまいし」
同じように、別の売り場から購入したお茶を抱えながら彼女を見つけたベムは、淡々と言った。
「やだなぁ、私、緋那と誰かが仲良くしてても、妬いたりしないよ? ちょっかいだしたくなる、だ・け♪」
意図的に答えをはぐらかしていると分かる、明るすぎる笑顔で、嫉妬が原因で恋人を埋めたり飛ばしたり騒ぐ常習犯がにっこり笑った。
「そんなことより、ホントウ、…君が妬いてるとことか、見たことない気もする。風矢君の幸せ妬んだ姿はわりとみてるけど」
―――そんなことより、彼女とその恋人のしょーもない痴話げんかにいらっとする気持ちもいい加減察してほしい。
思うベムだったが、口には出さない。
代わりに、ただ静かに呟いた。
「だって妬けない」
「いい男だと思うけど、ダニさん」
茶化すような言葉を投げる磨智をベムはすい、と一瞥する。
「…僕は別に、緋那が誰に惹かれてもいいから」
「……いいの?」
思わず聞き返しながらも、磨智は気付く。
静かな彼の言葉に、嘘はない。
かといって、一言告げるなり緋那に戻った目線にも、嘘はない。
振り向いて欲しそうな顔をして、そんなことを言う。
「それってあれ? 誰が好きだろーが振り向かせて見せるっ、ってこと?」
「…少し、違う」
磨智は声音から揶揄の色を消す。だからこそ、ベムも僅かに身を動かし、目線を動かして答えた。
「緋那が僕を好きじゃなくとも、僕は緋那が好き」
「…それはまぁ、見てれば分かるよ」
初めて出会ったその時から、愛を叫び続ける彼は、とりあえず今現在受け入れられていない。かつてのように拒絶されることはないが、微妙な距離を保っている。
彼がそれでも良いと思っている理由は、ことを急いでからまわりしていた最初を反省したから―――ではない。
「緋那が誰かを好きになっても、それは変わらない」
「…そこは変わっておこうよ」
げんなりとした顔で言う磨智に、ベムは首を傾げた。
「なぜ。迷惑をかけないように自重はする」
「それじゃあ、君が幸せになれないから―――っていいたいところだけど。
それじゃあ、緋那が気まずい思いするじゃない。とっとと諦めて、できたら新しいヒトみつけて」
「君、僕のこと嫌い?」
「ううん。私は緋那が好きなだけ」
にこりと笑う磨智に、ベムは小さく息をつく。
一体、その気持ちの所為でどれだけ不利益を被ったか―――…そう恨み事を言うのも、面倒だ。
それよりも、とばかりに、再び愛しい少女を見やる。
視線の先の緋那は、まだなにごとか話を弾ませていた。
初めて会った時のことを、今でもよく覚えている。忘れるはずがない。
砂漠に落ちた一滴の水のように。
その存在は、心を潤した。
砂漠で求める一滴の水のように。
この上なく、甘く感じた。
これ以上なく―――どんな結果になってもよいと思うくらいに、必死で、惹かれた。
ベムは静かに目を細める。
楽しそうな彼女を見るのは楽しい。だから、嫉妬などしない。
けれど、彼女にそれをしてもらえたら、それは幸せなんだろうな、などと。
そんなことを思いながらその姿を眺めていると、ばち、と目が合った。
熱心に情報を交換し合っていた少女だが、ちらちらと背中を気にするようなそぶりを見せ始めたことに気付いて、ダニは問いかけた。
「…気になるのか?」
「あ…ああ…待たせてしまったからな。そろそろいかなければ」
ぷい、とそむけられた顔が、赤く染まるようなことはない。
ただその声色は、ひどく柔らかい。優しい。…嬉しげだ、とダニは感じた。
なんだか、懐かしいものを思い出す。
鮮やかな恋に身を焦がし、見事結ばれた、大切な妹のことを、うっすらと思い起させる声色だ。
勿論、細部は違いすぎて、本当に『うっすらと』だが。
―――あそこの少年は、まるで相手にされていないという話だったが。
あながちそうでもないのかもしれないな。
思い、フッと微笑むダニに、不思議そうな顔をする緋那。しかし、気を取り直すように微笑むと、軽く頭を下げて踵を返した。
砂漠に落ちる、一滴の水のように。
些細な変化だとしても、少しずつその心を潤わせていることに気付いてはいないのは、存外、当事者だけなのかもしれなかった。