朝の生まれる場所と呼ばれる町から、ごく近場にある森の中、ある炎龍が木の幹に体を預けて、空を見上げた。
 青く、広い空。
 炎龍は、それを美しいと思って眺めているわけではない。他に見るものもないから、そうして眺めている。
 暇つぶし、というのも違う。
 炎龍は、やりたいこともやるべきこともなかった。だから、この状況を暇だとも思わない。これがいつもの状態だ。
「……あ」
 ただ風のざわめきのみに傾けられていた耳がピクリと動く。なにかを捉えたように。
 そして、炎龍は黙って立ちあがる。そのまま捉えた音から遠ざかろうと踵を返しかけ―――なにかを思いついたように朱色の翼を動かす。
 つい先ほどまで凭れていた木の枝へ炎龍がゆるく腰かけると、捉えた音、否、声の主達が目視できる距離へと近づいていた。

空 −青い空と空の器−

 ある森―――朝町で暮らし、一度は主人の検索にでも付き合ったあことのある龍ならば、度々足を入れたことのあるであろう、ある森。
 そこに、一人の男性と女性が歩いていた。否、見るものが見ればすぐに分かる。正確には、彼らは人ではない。人の姿を借りた龍だ。
「なんで! お前もここにいるんだよ! 見つけるんだよ!?」
 男性の方―――長く朱い髪を流したまま、きっちりとしたスーツ姿を着こんだ男性は、焦ったように声を上げる。
「それは…メディー様にお仕えするのが妻であるわたくしの務めですから」
 問われた女性は、頬に手を添えて笑み混じりの答える。ゆるく波打つ赤く長い髪が、その動作に合わせてふわりと揺れる。花をあしらったドレスと相まって、非常に優雅だ。
 中々魅力的な笑顔だが、メディーと呼ばれたメディナバルムルはそれに頬を染めることはない。むしろ、整った顔を引きつらせて、一歩後退する。女性と距離をとる。
「…俺は黙って出て来たんだぞ」
「ええ。そうですわね」
 それがなにか? とでも言いたげな笑みを浮かべる彼女は、マルという。朝町で暮らすマルドゥクだ。
 そんな彼女は、服装をとっても振る舞いをとってもいいところのお嬢様、といっても通用する。
 ―――けれど、彼は知っていた。
 最近、色々あってメディーへの嫁入りを前提に居候となった彼女は、彼がどこにいてもどこからともなく現れる。それも、誰にも気づかれないように、ごく自然に。
 気づけば背後に立っていてどっきりすること数回。照れやその他諸々から、彼女から逃げだすことその倍。彼女が追いかけてくること、同じ数。
 ただのお嬢様なら、そんなことはできない。
 主人同士の意向で見合いという形をとっていた頃はおどおどするわ泣くわで苛立たされることも多かったはずなのに、いつのまにかなにかが変わっている気がする。
 お前温和って嘘だろう、みたいな。タチの悪い詐欺にひっかかったような気分とはこんな感じかもしれない、と彼は思っている。
 思っていると、ふわ、と薔薇の香りが鼻腔を撫ぜた。思考に沈んでいた意識が、にわかに引き上げられる。
 これまた音もなく距離を詰めた実質婚約者が、メディーの前で微笑んでいた。
「―――おま…っ!」
 近すぎる距離にさらに後ずさろうとした彼の背中に、とん、と木の幹がぶつかる。まるで、退路を断つように。その瞬間、マルの笑みが深くなった気がしたのは、気のせいではないだろう。
「メディー様……」
 鼻先が触れあいそうな距離に、少なからず引かれている女性の笑顔。
 密やかに寄せられた体はどこまでもやわらかく、熱い。柔らかな笑みを浮かべる唇も、きっと同様なのだろう。
 いつのまにか添えられた両手で挟まれたメディーの頬に、一筋の汗が流れる。
 照れくささと同時に、なにかが警鐘を鳴らす。男としてのプライド的なものがガンガンと警鐘を鳴らしてくる。
「――――っ!」
 すべてに急かされた彼の行動は一つ。
 力いっぱい彼女の体を突き飛ばす。
 ハッとするものの、もう遅い。
 倒れることまでははいかなかったものの、マルは数歩たたら踏む。僅かに俯いた彼女の表情は、長い髪に隠れて伺えない。
「う…」
 またやってしまった。
 後悔がじわじわとこみ上げる。何とも言えない居たたまれなさも共にこみ上げる。
 悪い。せめて、そう一言声をかけようとした。その時。
「メディー様」
 その時響いた声は、常と変らぬおっとりとした声。
 けれど、メディーはなぜか背筋が凍るのを感じた。
 怒気が宿っているわけではない。むしろ楽しげな声だというのに、ゾッとしたものが走った。それは、きっと彼女の声の場違いなほどの甘さゆえ。
 自然に足が動きだす。踵を返して走り出す。なにから逃げているか分からぬうちに、彼は全力で走りだしていた。
「あらまぁ」
 追いかけっこですわね。
 頬に手を添え微笑みながら、マルはにっこりと笑う。
 あくまで可憐な唇に浮かんだのは、どこまでも楽しそうな笑み。
 その笑みのまま、彼女はチラと木を一瞥する。鬱蒼としげった木の葉の影に隠れた何かを見つけたように。そこに隠れるだれかを見透かすように。
 けれどそれはほんの一瞬。彼女はすぐにとっとっと…と駆けだす。優雅な仕草に似合わぬ結構なスピードで、逃げだした想いの人を追いかける。
 ―――そして。
 赤い髪とスカートをふわふわとなびかせて走る彼女が見えなくなったのを確かめた後、がさり、木の葉を鳴らし、炎龍は地面へと降り立つ。なんとなしに先ほどまで覗き見ていた二人が走り去って行った方角をぼんやりと見つめる。
 ―――交配相手…なのかな…?
 どちらかと言えば獲物と狩人って感じだったな。
 浮かんだ感想はすぐに消える。興味が失せる。―――いつものことだ。
「………」
 名の無き炎龍は空を見つめる。他に見るものがなくなったせいだ。
 空は、つい先ほどと寸分変わらずに青く、どこまでも広い。
 炎龍の中には、それを愛でようと思う気持ちはない。かといって、眩しい日差しを厭う気持ちもない。空はただ空であるだけで、それ以上の意味はない。例えばそれが落ちてきても、動揺しないのかもしれない。
 彼にとって、全てのものに等しく意味はない。その心の中は、空っぽだ。
 炎龍は無言で瞳を閉じる。
 いつか、自分にも来るだろうか。先ほどの彼らのように、誰かと契約しようと思える時が。そうして動く生の中で、得たいと思う目的が。 空の器に水でも注ぐように、なにかに満たされることがあるのだろうか。
「………」
 別に、どうでもいいけど。
 その呟きは、空気すら震わせることもなく、その身の内の無気力に吸われていく。
 それを自覚しながらも、炎龍はそっと瞳を閉じる。彼は、己の行く末にも興味はなかった。

 大木に背を預けてまどろむ彼が、そのあり方を変質させる少女に会うのは、まだもう少し先の話。
 その求愛行動がいささか一方的かつ情熱的だったのは、この日の出来事が世の『普通』だと捉えた所為ではない。


「ベム…いちいちついてくるな、鬱陶しい」
「鬱陶しくない。普通」
「どこの普通だ。ふざけるな」
「炎龍の普通」
「私も炎龍だから遠慮なく言うぞ。こんな普通があってたまるか!」
 ―――それでも…影響がないとは、言いきれないのかもしれないけれど。



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