それは、いつもと同じやりとりだったのだ。
 微笑ましいやりとり―――だったのだ。
「なんでもねえことだろ!」
 言った瞬間、彼女の顔が変わった。
 怒りを隠さない笑顔という怖い表情から、怒りが抜ける。
 ドングリみたいな大きな瞳に、ひどく頼りない感情がちらつく。
 けれど、それは刹那の出来事で。気づくのに時間がかかったし、気づいたてからも、なにもできなかった。
「…メー君の…!」
 ―――あ、やばい。
 そう悟る頃には、いつも遅い。
「…馬鹿っ」
 すっかり耳に馴染んだ罵声と、土砂の襲いかかる音。
 けれどちっとも慣れる兆しのない胸の奥の痛みに、メーは顔をしかめた。

鬼 −その鬼の名は…−

 ―――ことの発端は、そのやりとりより少し前にさかのぼる。

 少し前、メーは111番地・朱音の店にいた。
 彼の主人が、肌寒くなり始めた気温に負けて風邪をひいたから、適当に好物でも買ってやろう、と。
 といっても、彼女は体調を崩すとまず胃が弱るので、食べれるのは治ってからになるだろうが。病人のいる家にいても気が滅入るし、少し出ていた方がいい。
 そのくらいの軽い気持ちで、足を運んで。
 とてもとても軽い気持ちで、ある龍と話し込んでいた。
「…へえ、目、悪いんだ」
 大変だなあ、と呟くメー。
 その様に、美しい飴色の髪をしたゾア・カオス、楓は力強く頷いた。
「お陰でお手伝いにも困るさま…、それにも関わらず、良くしていただいて、本当に感謝しております」
 憂いに満ちた顔が、幸せそうな笑顔に変わる。
 それだけで、辺りの空気が華やかになるような錯覚。
 キレイなヒトだなぁ、メーは内心で嘆息する。
 思うだけで、口には出さない。ただ、「ここの人たちしっかりしてるもんな」と頷くに止める。
 頷いて、再び顔を上げると。
 長い睫毛で縁取られた飴色の瞳が、思いがけず至近距離にあった。
「貴方の目は濃い琥珀色なのでございますか」
「えっと、…光龍だし?」
 思わず一歩下がる。その分一歩迫られる。
「美しいですわ」
 きらきらと、きらきらと光るなにかを背負った無邪気に嬉しそうな笑顔に、メーは顔を赤くする。
「…あの、それ、むしろ、あの…」
 すいっと身をのりだされ、顔の赤さは耳まで広がる。顔へ水を乗せれば沸騰するのではないかという赤面具合だ。
「ポコス様は琥珀色でございましたが、そちらとはまた違う深い輝き、瞳の中で灯が輝いているようでございます」
「え、あの」
「本当にお美しい…光にかざせば、より趣き深く輝くのでございましょう……」
「その、楓サン…?」
 熱のこもった言葉に、メーはただ言葉に迷う。
 彼は美人が苦手だ。美人が苦手というより、美人に近づかれるのが苦手だ。どう反応していいかわからないし、なんとなく怖い。
 だから。その反応に他意などない。
 けれど―――
「…メー君」
 地龍だけに地の底から響くとでも評せそうなその声に、彼はぎぃいっと振り向いた。
 そして―――口論が始まり、埋められて、冒頭に至る。

「…怒りで頬を染める女の子とは可愛らしいものでございますね」
 土砂から這い出した時にうっとりとした声が聞こえた気がしたが、彼は全力で気にしないことにした。
 悄然としすぎていて、聞こえていなかった―――とも、言うけれど。

 その後、家に帰って。砂まみれのカステラ主人にあげるという行為で思い切り怪訝な顔をさせた後―――彼はひたすら落ち込んでいた。
 はぁ、と息をつく。
 なぜ何度も同じことになるのだろう。同じことで揉めるのだろう。
 どうして…と考える内に、自然と肩がさがる。
 がっくりとしか形容できないその様に、呆れたような声がかけられた。
「邪魔です。リビングの真ん中で座り込まないでください」
「…風矢」
 緩慢な動作で顔を上げてるメー。
 眉の下がったその表情に、風矢は顔をしかめたが、失意に肩まで浸かった彼は気にしない。
「風矢ぁ、お前さ、小町が誰か女と喋ってたら嫌か? ブレスかましたくなる?」
 訊ねる様は至って真剣で深刻。
 だからこそ、風矢は頭が痛む。ずきずきと痛い。
「…私に訊くなら、誰か男と、と訊くべきかと」
「はぁ? なんで」
「なんでって…あんた…」
 それ本気で言ってるんですか、と言いかけてやめる。真剣そのものの顔だ、聞くまでもない。
 だからこそ、彼は本気で溜息がもれた。
「磨智さんの苦労が忍ばれます…あんたら何回似たようなネタで揉めてるんですか」
「好きで揉めてるんじゃねえ」
「そうなんですか」
 てっきり怒らせんのがシュミだとばかり、と嫌みったらしい口調で言う風矢。
 それは、いつものやりとり。本人たちは喧嘩のつもりだが、周囲にじゃれあいと言われてしまうほど、いつものやりとり。
 だが、いつもなら騒々しく紡がれる反論はない。
 ただただ落ち込み果てた様で座り込んだままの光龍に、彼は少しだけ表情を和らげた。
「…まあ、私、そういうことで怒られたことありませんし。むしろ羨ましいですよ」
「はぁ?」
 顔を上げ、怪訝そうな表情を作るメーに構わず、風矢は淡々と告げる。
「嫉妬を呼ぶような行動する気はありませんが、もうじゃんじゃん妬いて欲しいです」
「じゃんじゃん!?」
 驚きに声をあら上げるメーに、風矢は静かに頷いた。
「僕が『妬けた』と言えば、髪焼けたのかと大真面目に心配してくれる方ですから。もう本当可愛くて仕方ないですよ」
「って、ノロケかよ!」
「ええ、そうですよ。当たり前じゃないですか。貴方を慰めるなんて面倒です」
 風矢はしれっと言って、少しだけ声のトーンを下げた。
「…貴方は私に聞くより、自分の身に置き換えて考えりゃいいですよ。
 いいですか? 磨智さんがどこぞやの男と仲睦まじくくっついてたらどう思います? べたべたしてたらどう思います?」
 低く、面倒そうに言われた言葉に、メーの表情が変わる。冷ややかに。
 もしも、磨智が誰かと、仲睦まじく―――……?
「……な」
 泣くかも、といいかけて口を噤む。情けない。さすがに。それは。
 いや―――否。違う。
「…たぶん、なにも言えねえ」
「へたれた根性ですね」
 ふっと鼻を鳴らす風矢にメーは一切反論しない。
 なにも言わず、静かに頭をふる。
「…だって、俺、あいつを信じてるもん。…だから、黙って待ってるくらいしか、できねえ」
 彼女が誰かと仲睦まじくして……そうして感じる感情こそが、きっと『嫉妬』だ。
 それでも、それを訴えることなど、できるはずがない。できる立場ではない。
 信じてくれたから、信じてみる。
 そんなことくらいしか、できないのに。
 心通わせてなお――あんな顔を、させてしまうのに。
 好きだという気持ち一つで傍にいて―――傷つけているのに。
「…もん、じゃねぇですよ」
 表情を暗くするメーに、風矢は冷たく笑い、背を向ける。自室へ続く階段へ歩き始める。
「本当…苛々する馬鹿正直加減ですよ」
「……そうか?」
 冷笑を浮かべつつも妙に気遣わしげなその声に、メーは少しだけ笑った。

 再び一人でリビングに座りこむメーは、差し込む日差しに目を細める。
 彼女が少し誰かと仲良くしたくらいで、騒ぐ権利は自分にない。どれだけ胸が痛もうが、できない。
 きっと、自分は、彼女に常にそんな思いを強いている。気づいてなお、強いている。
 彼女のことがどれだけ好きでも、主を切り捨てることができていないのだから。
 離れることは、できたと思う。けれど、まだ。きっとまだ…磨智は。寂しいと、思っているのだ。
 それなのに、それで良いと言ってくれた。好きだと言ってくれた。
 だからそれ以外いらない。ただその言葉を信じようと決めた―――どんなことがあろうとも。
「……」
 無言でがりがりと頭をかく。
 ―――俺がこんなに悩むなんて、お前のこと以外、ないのに。
 あぁ全く、小さな呟きはしんと響く。
 しんと響いて、胸のどこかへ染み入った。


 帰宅するなり自室にこもった磨智は、深く溜息をつく。何度目かも知れない溜息。一人でいるから延々と繰り返してしまうと思っても、誰かといる気になどなれないから仕方ない。
 そもそも、吐きだす相手も今はいない。ベムはなにかと論外だし、風矢には今まで振り回した負い目がある。緋那は家事のほかに主の看病をしているし…主には、今、会ってはいけない。余計なことを言ってしまう。
 そして、『彼』には…合わせる顔がない。
 今回は言い過ぎた。やりすぎた。…なんでこう、何度も。
 はぁ、と再度息をつく。今回は…彼はそこまで悪くない。話していただけで目くじらたてられても、困るだろう。そう思う。
 なのに。
 なのに、捨てきれない想いがくすぶる。
 ―――何赤くなってんの、でれでれしちゃって。
 軽い言葉になど込めきれない、冷たい想い。
 彼のことは、信じている。信じていても…心の中で、鬼が囁く。疑心暗鬼という鬼は、囁くことをやめない。
 ―――なんで私だけじゃダメなの、と。
「……もう、嫌だよ」
 好きだ、と。
 彼のくれたその言葉を信じたい。その言葉だけを、信じていたい。
 それなのに、信じきれない自分が嫌だ。ふとしたはずみに、それは隠せなくなる。隠せなくなって、嫌で嫌で…やつあたりをしたのだ。
「……」
 はぁ、と息をつく。今度のそれは、さらに深い。うなだれるまま、艶やかな髪が肩口から滑り落ちる。
 気が重い。鉛のようだ。それでも―――いつまでも、部屋にこもっているわけにもいかない。
 謝らなきゃ。
 胸のうちで呟いて、磨智は座り込んでいたベッドから降りる。そして、重い足を動かして、ドアノブに手をかけ―――
「あ」
 開けた瞬間、目の前に現れたメーに目を見開く。
「……なんの、よう?」
「…あー…、あの、あれだ」
 驚いたのは彼も同様のようで、やけにたどたどしく切り出した。
 磨智は黙って眉を寄せる。いつもならからかうであろうその態度は、今の彼女にとっては気を重くするものでしかない。
 世辞にも温かいといえない恋人の対応に、メーはぽりぽりと頬をかく。困ったように。困ったように、やっと言った。
「話、したくて」
「…リビングしたではできないお話?」
「…そうだな」
 頷くメーに、磨智はくるりと背を向け、言う。
「…じゃあ、中どーぞ」
「あ、いや…磨智」
 ぽん、と控えめに肩に手を置かれ、名を呼ばれ。
 彼女は無意識に振り向く。
 身体ごと振り返った瞬間、頬に手を添えられた。次いで利き手を掴まれ、抱き寄せられ。そうして。

 ちゅ、
 と唇に一瞬熱いものがかすめた。

「…………メ」
 メー君、と呼びかける前に、抱き寄せる力が強くなる。
 ぎゅうぎゅうと抱きしめられて、その顔が伺えなくなった。
「………メー、君?」
「言うなっ!」
「でも、今、君」
「いーうーなーっ!」
 叫ぶメーのその顔は、例のごとく耳まで赤く染まっている。
 つり気味の目に諸々の感情から生まれた涙までうっすらとにじんでいるが、それを彼女が目にすることはない。
 そもそも―――目にしたとしても、同じくらい真っ赤になった彼女にそれを認識する能力が残っているかは疑わしい。
 お互いがお互いの顔を見ぬままに、実に気まずい沈黙が落ちる。
 それを破ったのは、怒声とも悲鳴ともつかぬ男の声。
「磨智!」
「な、なに」
 ぐっと肩を掴まれ、顔をのぞきこまれ、彼女は僅かに上ずった声で答える。
 いつもなら全力でからかい倒す彼の顔の赤さにも気づかぬまま、真っ赤な顔をさらす。
「俺は!」
 肩を握る力が強くなる。彼の顔に浮かんだ焦燥も、また強くなる。
「こーゆこと、したいって思うの、お前だけだからな!?」
 言い切るなり、痛みさえ与えていた力が抜ける。抜けすぎて、軽く彼女にもたれる細い肩に顎を預ける形になる。
 だけ、だから。へこんだ顔、すんな。
 耳朶の傍で繰り返された頼りなくも甘い呟きに、磨智は小さく笑った。微かな笑みは、やがて深く、華やかに変わり、明るい声となる。
「…うん」
 頷いて、きゅっと抱きつく。
 すっかり脱力していた身体はその勢いに押される。数歩たたら踏み、そうして、どうにか受け止めた。
 不器用な様に、磨智はもう一度笑う。楽しげな声で。
 ひとしきり笑い、声音を静かなものに改める。
「…ごめんね、メー君」
 頭を下げて、彼女はそのまま胸に顔を埋める。
 それでも、いつものように大慌てで騒がれることはなく、ただ静かに肩に手が添えられたのが分かった。
 そのぬくもりを感じながら、磨智はそっと目を閉じる。そのまま安堵したようにも、苦笑したようにもとれる息を落とした。

 鬼を生むのかあなたなら。
 静めるのも同じヒト。

 だから、きっと、何度でも。
 何度でも、伝えよう。

「大好き」
「…ああ」

 甘い囁きに、小さな声が答えた。


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