――このまま頬杖をついてだらだらと過ごすのも、そろそろここまでにしとこうか――

頭ではそう思っても体は中々動かない。
ちょうど目の前の窓越しで拡がる鉛色のカーテンで覆われたように灰色に染まる空模様と同じく、どんよりと鈍る脳裏にその言葉だけが何度も反復する。
この状態を突き破りたいのか、それとももう少しこのままの自分を守りたいのか……
私にとっての答えは――




一度深呼吸をして、テーブルの上のさっき少しだけ口をつけてそのままほったらかしにしていたままだったカップの紅茶を一気に飲み干す。
喉に流れる紅茶はすっかり熱を失いかけて、凄く中途半端な感じであったが、今の混沌とした意識にはむしろ似合っている気もした。
カップを置くと、徐に元々短く切っただけと言ってもいいくらいの自分の茶の前髪をいじる。こういう時に乱れや寝癖を割と容易に直せる意味でダージリンはこの髪型を悪くないとも思っている。
髪は女の命という言葉はあるけれど、ならふとした拍子で自分の見苦しい感情や浅ましい考えが表に出そうになるときに、せめて見た目だけでも大きく乱れないようになるのだって立派な女の命を守る手立てであり、矜持ってものではないだろうか。
もちろん、屁理屈だけれど。
自分がこんな屁理屈ばかり捏ねるようになってたのはいつ頃からだったのか、ダージリン本人にも思い出せない。
気分はどうでも、せっかく朝からの時間を、今回気になった美術館で過ごそうと思ったのだ。そう思って真っ直ぐに進めない自分がもどかしいとは分かっているのだけれど……





「すいません、一枚お願いします」
差していた傘の水を切り丁寧に折りたたみ、係員に簡潔に玄関口で受付を済ませると緋那は大理石の通路を無駄のない動きで真っ直ぐに進む。
朝からの降り続く雨は日課である洗濯や炊事にかかる手間を予想以上に増やしたし、精神的な消耗はそれ以上だった。
こうして美術館に足を運ぶ段階で、予定していた時間より遅れてしまった事が気に掛かった。
ところどころ吹き抜けになった美術館の内装は、外の天候に関係なく整頓されて、その通路の両脇に展示されている美術品が並んでいる。
そこには一種の日常とはまた違った時間の流れがあるような感じすらするくらいだった。
左右を振り返り、展示されている作品に一つ一つゆっくりと目をやる。
絵画、陶器、彫刻。
一つのジャンルに拘らず、むしろもの珍しいものなら何でも並べて展示させる大雑把さは、いかにもこの町らしいとも言えた。
自分以外の見物客の姿が、だんだんと増えつつある中一通りを見終わる段階で緋那はある事にふと気付いた。
入り口と隣り合わせになっている出口には、昨日までなかった筈の新しい作品が二つ並んでいる。
「……」
前にここに来た時は確かになかった作品に、少しだけ緋那は訝しむように視線を細めた。
一つはどうやら一昔前の――但し、竜の基準ではもちろん必ずしもそうとは言えないが――裕福そうな身なりのドレスを着込んだ初老の貴婦人と、その横で羽根突きの帽子を被った少女の油彩画だ。
親子だろうか。幸せそうな絵なのにどこか分からない違和感を緋那は感じられる気がして、緋那は首を傾げた。
もう一つは彫刻だった。
巨大な槍を手に取り、鎧に身を包んだその背中から大きな鳥の翼が躍動感あふれる形で反り返っている。
凛々しい目つきが台座の上からこちらを見つめるような格好になっている。
迫力と優美さが溶け合った造形だ。
しばらくそれらを見ていた緋那が、今度はそれら美術品とはかけ離れた、しかしある意味目を引く後ろ姿に気付いたのはその時だった。
「なんだ…ダージリンじゃないか?」
ちょうど、新しく並んだ二つの作品の間に並ぶようにして立っていたその位置の間に、ここ最近二度ほど花屋で話しかけてきた地龍の姿――もっと言うと、その見慣れたならひたすら特徴のある服装を見つけた緋那は思わず声を掛けた。
コートに覆われた両肩がビクリと大きく跳ね上がり、次いで浅黒い顔が緋那の方へ向いた。
「!緋那サン……」
そう言ったまま驚いたように緋那を見つめていた大きな目は、徐々に以前遭遇した緋那の知る、人懐っこい笑みを浮かべる。
「こんなとこでも会うなんて……本当に最近ご縁がありますね」
「ああ、確かにな。腐れ縁だ。
お前はこんなところにも来たりするのか?」
以前あった花屋と言い、この地龍と顔を合わせるの場所として意外とは思わない……と言うなら嘘になると言うのが本音だ。二度ある事は三度あると言うが、さすがにここまで来るとちょっと一種の警戒本能みたいなものが働いてくる。
「芸術品が分かる程の殊勝な龍では……ボクは残念ながらありませんよ……」
緋那の問いにそう答えると、ダージリンはふと半笑いの表情をして、大げさに肩を竦めた。言葉とは裏腹に卑屈なのかふてぶてしいのか分からない態度だ。
「お前…そ……」
「ただ、こういう雨続きの日には、そういうのをゆっくり見てみたいと思う程度にはボクもここに目を惹かれてますよ」
『そんな事を言いながら、しっかり来てるじゃないか』
そう緋那が指摘する前にまくし立てて話の腰を折る。この地龍に苦手意識みたいなのを抱く理由の一つだ。
その地龍は半笑いだった口元が一転してまたにんまりとしたに戻すと、一度緋那に向けた大きな瞳がゆっくりと今までの通路に展示してある美術品に映って行く。
緋那がさっきまで目をやっていた、油彩画、水彩画、前衛アート……
そして彫刻に目をやりながら。
「……とにかく、人も多くなって来たんだし、こんなところで話してると迷惑だな……
話は出口を出てからだ」
緋那もまた、渋い顔をしながら一緒に連れ立って出口までの移動を促した。
とりあえず人が増えてきた美術館を、二人で移動する。
「しかし、新しいのが増えましたねえ」
緋那の方には目を向けずに、ダージリンは話を小声で振り出した。
「……あれのことか?」
緋那もまた小声で答えながら、恐らくはダージリンが言っているのであろう二つの作品。絵画と彫刻に軽く目線を動かす。
「神秘的なんだけど……ちょっとものものしいとも言いますか」
どうやら、彫刻の方をダージリンは言っていたらしい。
その瞬間に地龍と炎龍の目線が改めてすぐ後方に一斉に向かう。
鎧に身を固めた細身の身体の背中からは大きな鳥の形そのままの翼が、今でも躍動しそうに突きだしている。
台座の上から丁寧に彫り込まれた凛々しい瞳の造形が、丁度こちら側を見下ろすような位置にあり、片手に巨大なやりを手にしている。
「天使の像みたいだな。それにしても随分と手を掛けてるなこれ」
「もっと言うと大天使の象ですねこれ。一神教の信仰の中にあるって言う。ああ、ボクの場合乾クンの仕事が仕事ですからいつも見てるんです」
そう言いながらパーティションギリギリまで近寄ると、ギリギリまで手を伸ばして、その象の表面を仕草だけでもなぞろうと指を宙で動かそうとするダージリン。
「ダージリン、勝手に触るなよ!そういうのはすぐに汚れや、傷がつくんだぞ」
叱責する際に、思わず声のトーンが上がる。
「ああ、ごめんなさい。ちょっと非常識だったかな?」
特に悪びれた様子もなく、ダージリンは苦笑いした。
「誰が造ったのかはおいといても、傷が付いたら製作者だって嫌だろう?」
「ええ、本当に。ごめんなさい、無神経でしたね」
そういうやり取りが終わる頃には、ちょうど二人は入り口と隣り合わせになっている出口の前まで来ていた。
大理石ので囲まれた時間の流れが歪む空間から、いつもの日常への境界線でもある位置。
「今日はわざわざ、ありがとうございますね緋那さん」
ダージリンは礼を言うとここだけ礼儀正しく一礼をする。
「もう帰るのか?」
「ええ、ボクには結局こういうのは場違いですからね」
「お前な……この前もそうだったが……結局そう言う考えは実際にやってみたら克服できるかも知れないじゃないか」
緋那のその一言に、またダージリンは笑う。それがどこか苦笑いのような色も含んだように、緋那には見えた。
「でも、ボクは矛盾してますからね」
唐突に出てきた言葉に、緋那の顔が不審そうな色になった。
 「そう、東のある国の故事で、ある武器売りが、意気込んで自分の売る盾と矛を最も強い盾と最も強い矛と触れ込んだって言う故事です。
そして、しかしそれを見た見物客が、その盾を矛で突いたらどうなると言われて、その武器売りは黙ってしまった……」
急に表情は半笑いのまま、淡々とした口調でそう語り出す。
「ああ、いやそんなことは知ってるよ。それが……」
緋那も聞いた事のある話だった。その例えを引き出した理由はつまり……
「……お前、自分にはそうしたい気落ちとしたくない気持ちがある。
だから矛盾して出来ない……そんなつまらない言い訳を言いたいのか?」
特に親しいと言う訳でもない。話はあくまでも流れとして突き合っているだけだ。
なのに、今の言い方は何故か緋那自身無性に腹の立つ言葉だ。
ダージリンの方はまた半笑いのままじっと緋那を見続ける。
「もしも、ボクから盾みたいに身を守るものが無かったら……
それこそあの槍で一気に貫かれるみたいにボロボロになるかも知れないですからね」
そこで唐突にチラリと視線が槍を持つ大天使の方に映る。
「話をコロコロと変えるんじゃない。お前のそういうところが不気味なんだ」
真意が良く分からない。その事に関して、タイプはまるで違う筈なのに緋那の脳裏に一緒に住む炎龍の事が何故かオーバーラップする。
「そうですね。ただ、あの一神教の大天使の槍ってのは自らの信仰と対立するものを貫くって言う伝承があるそうです。
それだけの、確かに正しい思いをまさに槍みたいに貫いてはいるんでしょうけど……」
むしろ、緋那には目の前の地龍の言い方が突き刺さる言い方だった。
かつて、自分のとそして彼以外の家族を思うあまりに正しいと思ってやったこと……
「ボクにはとても怖くって……」
「そんなのは……」
そんなのは、誰だって一緒だと言う言葉が思うように出てこない。
自分の弱さを盾で守ろうとする地龍に真っ直ぐに矛先を刺そうとするにも、先に絡められてしまった気分だった。
「だからね、せめて同じ聖槍なら救いを待とうとボクは思うんです」
「救い?」
再び話を変えるダージリンに、しかし今度は緋那は自分でも意外なほど動揺もしなければ、憤ってもいない事に気づいていた。
「その一神教ではね、そこで信仰する偉い方が十字架にかけられて一度は死んでしまうんです。
とにかく正しいと思ってやった事で、自分が悲惨な目に逢っちゃうと言う。
それで、死んじゃったその偉い方の前で死刑を取り行った敵の国の兵士が槍でついてみた。
すると、死んで三日も経ってる筈の偉い方の身体から、血と水が流れた。
まさに奇跡で、これが偉い方が神様の力を持つとみんながそう認めた瞬間だったと。緋那さんもやっぱり知ってますよね?」
「だけど、そんな受け身じゃお前には奇跡は起きないぞ?
なにか行動してみろよ」
「覚えておきますよ」
ダージリンはにんまりと笑う。
緋那も、溜息を吐く。
結局、こういう風に丸めこまれて逃げられたような感じなのに、思ったよりも不愉快ではない。不思議な感覚だが。
「緋那さんにはとても大事に思ってくれる方が居るみたいですからね。
ああいう風に大天使造るのはやりすぎだけど」
「!……なぜそう思うんだ?」
突拍子もない一言に、緋那は思わず食ってかかるようにダージリンの方にのめりだした。
「だって……ボクがさっき彫刻に勝手に触ろうとする真似をした時、造った作者のことを案ずるような言い方してたじゃないですか?
緋那さんはその前に移動しようと言った時は、みんなに迷惑がかかるのを気にしてたのに……」
油断するとこういう事を言ってくる、この地龍はやっぱり苦手だった事を緋那は再確認した。
ダージリンは片手を挙げると、そのまま去っていく。
コートの後ろ姿が見えなくなってから、ベムがまた自分の為にと造った彫刻を改めて見やる。
この顔立ちは自分に似せようとしたのだろうか……
自らの思いを貫く天使になぞらえるベムをあとで叱ろうと思うが、今は美術館に事情を話して、この像を一緒にかたづけるのが第一だった。
多分、ベムはこれ以外にまだまだ造っている筈だ。
「……」
偶然、その隣の同じく新しく入って来た。
多分、こっちは古い油彩画に何だか注目が行く。
貴婦人の隣の影になった位置で、ガウンに羽根飾りのついた帽子を被る少女……
さっきの地龍を思い出し、もしもちゃんと女の子らしいことをしていたら、こんな風になっていたのかもと思う。
ただ、この絵の少女に妙に面影が重なる気がするのは気のせいだろうかとも思ったが、既にその時は緋那の意識は完全に別の方向に向いていた。
「あ、緋那ちゃんと見に来てくれたの」
「ベム、いいからまずは後片付けだ!」
自分を追って来た炎龍に、緋那はまたいつも通りの接し方を始めていた。
ただ真っ直ぐに。



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