「まあ、そこまでの大変な財産がお母様……ひいては私の元に支払われるのですね?」
「大変理解がお早くて何よりです。お嬢さん」
 それこそ、廻り一面に咲き続けている薔薇の花弁を思わせるような小さな紅い唇から、紅茶の入ったカップを受け皿に戻すと今迄の話に火乃香は目を輝かせる。そんな炎龍の少女の言葉にテーブルを挟んで微笑む一人の男。
 既に若くはなく、中年を通り越して壮年に差し掛かっているくらいだろうか。
 黒い上下の高級そうな背広を上品に着こなした柔和な顔立ちの紳士だ。
 見た目の割に髪が真っ黒な事もあって、若々しい印象を与える。少なくともこの朝町に住んでいる者の顔では無かった。
「では、改めてそちらのマスターである羽堂亜理沙様にも近い内にご連絡をする為に窺いたいと思います。では、私はこれで。
……さあ、これで引き上げるからお前も付いてきなさい」
 今ままで不在であるマスターの代理として応対に現れた火乃香に見せていたある大富豪の遺言書と銘打たれた『エレ嬢の寄付金で、幼少の頃難病の危機を逃れた』と言うサインから始まる一枚の書類を再び鞄の中にある無数の書類の中に入れて、紳士はこの68番地を訪れて来た時からずっと従えているまだ幼い容貌の、やはり男と同じく黒い髪をした少年に声を掛け、傍らに立てていたステッキを手に取って椅子から立ちあがる。
「ああ。最後にもうひとつだけ……」
 唐突に、そこに火乃香が声を掛ける。
「何でしょうか?」
「私、まだ夢のように思えています。だって、直接見た事もないお母様が、私の知らないところで素敵な事をしていて……
そして、それが私のところに戻ってくるのですから」
 どこか遠くを見るように、うっとりとその紅い瞳を翳らせながらほんの一時間ほど前に舞いこんだ、お伽噺を噛み締めるように呟く火乃香。
 彼女もまた、日傘を手に取るとまだ残暑の陽射しが陽炎のように立ち込める薔薇園の廻りを椅子から離れてくるくると廻って見せる。
「……そこまでお喜び頂けたのでしたら、我々としてもこれ以上の事は。
しかし……」
 そこに来て、紳士は急にほんの少し気を落したように表情を曇らせる。
 傍らの少年は、慌てたように彼の傍に駆け寄るが、そのまま途中で立ち止まった。
「あら?どうかしましたの?」
 くるくる廻っていた動きを、そこでピタリと止めてキョトンとした表情になる火乃香。
「いえ、ただこれは大きな金額が動く話ですので。
もう一度話し合いたいと思っています」
 それだけを言うと、紳士は少年を引き連れて出て行った。





「火乃香、また勝手に気まぐれで……」
 いきなりお茶会の誘いを受けたフェレスは、げんなりした顔をしながらもそれを承諾した。
「なら、決まりね。私はこれから材料を買いに行くわ」
 日傘を身体に寄せながら、火乃香は踵を返してどこかに向かい始める。
 付き合いは充分に長い筈なのに、時々彼女がどこに行くのか分からなくなる感じがあった。
 一度は眼を離すも、不意に不安になって振り向く。そこには紅い日傘が羽堂宅の方に向かってくのが映っていた。






「意外と間抜けなのね」
 忍び込んで、ようやく羽堂宅の金庫から骨董品になりそうなものを探していた紳士は、見つかった事に特に激昂するでもうろたえるでもなく、静かに振り向く。そこには灯りを背にした小柄な炎龍の少女。
「油断していただけさ」
 余裕のある態度で、背にもたれる老紳士。
「いくらばればれの詐欺でも、さすがに龍でありながら人の振りをするのはやめた方が良かったわね。貴方、ここら辺で他にも色々と詐欺ったのかしら?」
 感情のひたすら見えない、薄い酷薄な笑み。火乃香はさっきとはまるで違った空気を持っている。
「勘違いするなよ、本当に君のお母さんの名前は知ってたんだ。
私と同じ闇龍だったしな。別に悪い感情だって無いさ。
私が一緒に連れているあいつだって似たような境遇なんだ」
 朝町の外では、当然龍にたいする風当たりは相当に厳しいところだ。
 なるほど、仲間になる龍を連れて詐欺師を働くのは無理のない事なのだろうが……
「でも、貴方少しだけ浅はかだったわ。
同じ楽しいゲームをするのに、勝手にお母様の名を騙ったんだら……」
 火乃香は、後ろ手に持った麻酔をちょうど死角になって身動き出来ない相手の隙に押し付けた。






『ドンドン!!』
 部屋の飾りつけを終えた頃に、その乱暴な音がドアの方から響いて来た。
 何となく、急に昂揚していた気分を醒まされるような不快なリズムだった。
「どなたかしら?」
 返事をしながら、手を途中で止めるとすぐにドアのノブに手を回す。少なくとも、長い間この羽堂邸で暮らしてきて一緒に住む住人はもちろん、自分と近しいと言える者でこんなデリカシーの感じられないノックの癖を持つ者はいなかったと思うが。
「あ、こんばんは。火乃香サン」
「……貴女!……いったいなんの用事なの?」
 自らの部屋のドアの向こう側隔てて、そこに立っていたのは大きなコートを羽織った、火乃香の白い透き通るような肌とはまるで対照的な、褐色の肌をした地龍だった。
 それこそ闇龍のそれを連想させる、かなり黒みの強い茶髪はただ短く切っただけ。と言う感じだ。シャツにハーフパンツのコートの下も、まるで手入れをした様子はなない。受ける印象は、それこそ街を徘徊するホームレスと言っても過言ではないだろう。
 容貌そのものが目鼻立ちのくっきりとした美形なだけに尚更異様な印象を受ける。増してや、相手はれっきとした少女であると知っているだけに。
「ん?ああ……確かにボクが何故ここに来るのかなんて言ってなかったね。
プライベートでここに遊びに来た事も無かったんだし。
 改めて、ボクは今回役所の方から頼まれて、ここで起きた騒ぎを担当させてもらう事になった、殺人課のダージリンです」
 そう言うと、にわかホームレスな外見の地龍――ダージリンはコートの裏から革張りの手帳のようなものを取り出して見せる。
 そこには確かに役所の登録らしき身分証明が記載されていた。
(この品の無い女、いつの間に龍の癖に役所に就職してたの?いずれにしても、ずいぶんふざけた話ね)
「殺人課?」
 内心に思うところは色々とあったが、火乃香はその最も物騒な名称に突っ込んでみる事にする。
「ん?ああ、もちろんボクも火乃香サン達ここに居るみんなの多くは龍だよね。ただねえ、ここ最近街に入って来た中に、他のとこじゃちょっと名うての詐欺師らしいのが入って来たらしくてね」
 火乃香の作った、怪訝そうな表情で初めて気がついたようにダージリンは独特のペースでまくし立てる。どうにも無神経さを感じさせる調子だ。
「それで、こういう事かしら?貴女……いえ、そもそもれっきとした地龍の貴女が役所に就職していたと言うのも驚いたけど、貴女のいるところは聴いた感じではこの街の部外者巻き込まれた事件を取り扱っている。そして、今回はその……随分と曰くありげな部外者が……」
「!!……流石。ちょっとしか話してないのに良く分かるね!
 んー、まあボクの居るところは名前ほど物騒じゃないんだよ。要は街の住人でも無いのに蘇生復活の勝手な乱用をされて役所を混乱させても困るから、そう言うのを早めにスッキリさせる為に、それの背後を操作すると」
「……」
 充分に物騒な話だと思ったが、あまり深入りしたくもない話だった。
 いずれにせよ、どうやらこの奇妙な地龍はここで起こった事を聞いて適当に調べに来たと言う事らしい。
「話は大体飲み込めたわ。それで、私に一体何を聞きたいの?」
飽くまでしおらしく、そして少しだけ何か得体の知れない事に怯える演技をしながらダージリンの質問に答えようとする。その時。
「火乃香、いる?」
 明らかに、勝手に部屋の中に入り込もうとしていたダージリンの背後で男性の声が火乃香の名を呼ぶのが聴こえて来た。
「!!あれ?確かアナタ142番地の地龍の」
 ダージリンが振り向くと同時に姿が視界に入って来た、長身の細身の身体の闇龍。フェレスもまた予想していなかった意外な来客に驚いたような顔をした。同じコートを羽織っているだけに、対比すると尚更ダージリンの格好のラフさ加減が目立つ。
「あー、ここの主人の羽堂サンにはもう報告行っていると思うけどね。今回起こった事の捜査を担当させて頂く事になりました、役所殺人課の……」
「そんな事は私が後からちゃんとフェレスに説明するわ。それより貴女結局一体具体的に何の用でここに来たの?」
フェレスが説明を聞きかされると、益々面倒そうな気もしたので火乃香は横槍を入れる。
「ああ、ごめんごめん。実はね、火乃香サンにフェレスサン。
この68番地の一室で……」





「それで、間違い無くモンスターに襲われたと?」
 内緒の話ができるような場所なら。と言う事でフェレスが提案した火乃香のお茶会の場所となている、薔薇に囲まれた庭園の一角。釈然としない様子で質問をするフェレスの証言を大体メモし終えると、ダージリンはその手入れのされていなさそうな黒茶の短い髪を空いた方の指でいじりながら、難しそうな表情をする。
「んー……今のとこ、そう考えるのが一番無理が無いと言うのが一緒にいる黒子サン達の一致した意見かな」
 昼下がりに、お茶会をしていたところに突然窓ガラスを破る派手な音がして、慌てて最初にフェレス。次いで後から何が起こったのかと入って来た雛姫、小町。そして最後に火乃香が羽堂宅の居間に入って来た。そこで見た者は倒れ込んで一時的に意識不明になった詐欺師の身体。
「正確には、その詐欺師で有名な男性も龍だって事が分かったんだけどね……」
 ダージリンは、くしゃくしゃと決まりが悪そうに髪をいじり始めた。
 背後で見ていた火乃香は、そんな彼女の仕草に軽く嫌悪みたいなものを感じる。
「だったら、貴女と一緒に仕事をしている役所の黒子さん達の考えで正しいんじゃないかしら?
世間知らずのよそ者が、ここでも馬鹿な事を企んでうーちゃんのとこから何かを盗もうとか思ったら、そこで運悪くもっと強力なモンスター……いえ、野生龍かも知れないわね。それに襲われて自業自得の目にあったと」
 内心の感情は内にしまって、火乃香はダージリンにダメ押し気味に仮説を述べる。
「まあ、今のとこその考えは無理はないんだよね。でもねえ……
仮にも龍が、それも名うての詐欺師やってるようなキレ者がこんな迂闊な事をするかな?と……」
「よしなさい!」
 急に火乃香の纏っていた雰囲気が刺々しいものに変わった。
 ダージリンはビクリとした様子で、釈然としない事に対する苦し紛れにいじろうとしていた薔薇の花弁に伸ばしていた手を止める。
「貴女、ひょっとして薔薇をちゃんと観た事が無いの?
今は夕方の薬も振りかけて、対して時間も経っていないし薔薇だけじゃなくて、貴女の手もただじゃ済まないのよ?」
「あ、これはゴメン」
 申し訳なさそうに伸ばしていた手を引っ込めるダージリン。
 観ていたフェレスも、少しびっくりした様子だ。
「火乃香、そんなにキツく言わなくても……」
 最早半ば義務と化した感じで、火乃香にフォローを求める。
「まあ、この方は地龍な訳だし、確かに大事には至らないかも知れないわね。
ただ、それで私の薔薇に余計な真似をされたらたまったものじゃないわ」
「火乃香!」
 かなり険悪な様子になりつつある二人に、流石に原因を作った側として気まずくなったのか、ダージリンは慌てて話を変えようとする。
「まあまあ、とにかく事情はこれで大体飲み込めたから。
ああ、それと最後にもう一つ」
「何かしら?」
 急に思い出した。と言ったようにダージリンは人差し指を立てる。
「とにかく重要な証明者になりそうな相手が見つかったと、ボクのとこにも報告が来てたんだよね」





「まあ、怪我は無かったの?」
 火乃香はすぐに駆け寄ると、小柄な火乃香りの体躯よりも更に小さい幼い闇龍の肩を優しく抱く。
「ボクたちが、さっき十分や十五分ほど話し込んでいたちょっと前に見つかったらくって」
 ダージリンはこれで二度目になる、行方不明だった闇龍の少年の街で発見された時間帯を報告する。少年を慰める火乃香。さっきからダージリンはそれをじっと見ている。
「でも、見た感じ無事なようで何よりだわ。彼はここに昨日の昼間遊びに来てくれていたの。野生龍がたずねて来る事なんか滅多にないから」
「ええ、そうみたいだね。彼がここで意識不明になった詐欺師の龍を見たって言っていて」
「それで何と?」
「いや、途中まで一緒だったけど、気がつくと居なくなっていたって」
ほら見ろと言ったばかりの表情で、フェレスはダージリンの肩を軽く叩く。
「やっぱり単なる不幸な事故なんだよ。むしろ、これが何かの天罰って言うんじゃないかな?勝手に忍び込もうとしていたんだし」
 そんなフェレスの言葉に、ダージリンは腕組みをしながら数秒間天井を見上げるようにして。それから口を開く。
「まあ、ここまで来たらボクもあれこれ考えすぎない方がいいのかもね。ただ……」
「ただ、何なの?」
 俯く幼い龍を何とかなだめさせ、火乃香はダージリンの方を向きながらあまりに引きずるその態度に苛立ったように言う。
「実はね、忍び込んで箱の中の書類を探していたみたいなんだよ。それが急いでいたみたいで……」
「だから何なの?」
「だって……変じゃないかな?途中まではナイフみたいなもので力任せに切っていた形跡があるのに、最後の一本は鋏で切ったように丁寧な切り口なんだ」
「……」
 これは妙なんだよね。と、それだけ言い残すと、ダージリンは気まぐれに扉を開けて出て行った。
「何だか色んな意味でよくわからないな、あの地龍の子は」
 ようやく、質問攻めから回避されたフェレスは頭を掻きながらため息を吐く。
「そうね、本当に。無粋な方だわ」
自 分にとってはさしずめ不穏分子ね。と火乃香は内心思った。





「へえ!それで大宇宙の意思でボクの車のエンストが分かったと?」
 あれからまる一日が過ぎて、買い物に出かけた帰りの庭先のベンチで、またもやダージリンがそこに座って小町と話し込んでいるのを見かけた時、火乃香は自分が相当に苛立つのを感じていた。
「貴女、少ししつこすぎるんじゃないの?」

「?あー、これは火乃香サン。実は今この小町サンから色々と面白い話を聞いていて。何でも、今日ボクが隣町まで車を動かしていたらエンスト起こして、ガソリンスタンド見つけるまでひどい目に会うのは、小町サンなら分かっていたって……」
「はい、大宇宙の意思でこの方が昔住んでいた随分サイケデリックな街での地下鉄のキセルが完全に伝説になっている事もまた然りです」
「そんな事を聞いているんじゃないのよ?怪しげなものばっかりいじってるのもだけど。一体、何が聞きたくて、またここに来た訳?」
「あー、それは実はまた色々とボクなりに思うところあって。
あ、色々と有難うね小町サン!ホント助かったよ!
いやね、今出た話するならボクが昔住んでた街はだだっ広いうえにそこが53の州に分かれててね。ボクはその中でもかなりビルが建っていてゴタゴタしているとこで働いてたんだけど……」
「無駄な話はどうでもいいわ。だから何なの?」
「いやね、これはそこで働いてた時の経験なんだけどね。大抵上手くいきすぎると最初に思った時は疑ってみた方が何かと気付く事が多くって……
火乃香サン、聴いたところだとさっきの小町サンをこないだお茶に誘う時に近くにいたのに何故かすぐには呼ばなかったとか……」
「それがどうかしたの?別に彼女をお茶に呼ばなかった訳じゃないわ」
「うん、そうらしいね。で、今聴いてみたら小町サン。何だか良く分からないけど色々な事を言い当てる不思議な才能持ってるそうで」
「随分廻りくどいわね」
 火乃香はダージリンの褐色の顔を睨みつける
「いや、別にそんな事は。ただそういう色々と知っちゃう事の出来る相手をすぐには火乃香サン呼びたくなかったんだな……ってね。
そう言えば、あの事件現場ってここから結構音とか聴こえる近さなんだね」
「……」
 相変わらず、とぼけた様子で頬を掻きながらああ言えばこう言って来る地龍。気が付くと飲まれてしまう不可解さを持った相手だ。
 火乃香は、ほんの僅か目を細める。
「貴女は、そんな外見を装っては居るけれど中身はまるで油断も隙もないずる賢さを持っているのね」
「え?いや、ずる賢いって……」
「いいのよ、むしろ貴女を見直したくらいだわ。実際、私は貴女の細かいところまで回るその頭に驚いているのだから。
そうね、きっとその気になればそれで相手を破滅させる事も可能なくらいには」
「え?ちょ、ちょっと……」
 滑稽なくらいに慌てて首をぶんぶん振るダージリンだったが、どこか火乃香の紅い瞳に映り込む、ダージリンのブラウンの眼の奥には冷たい硬質な雰囲気が漂う。
「私には、貴女のようなタイプが何となくわかるの。ええ、それは私から見ても近いけど、それだけに遠すぎる存在。相手の心が分からないからこそ、興味で相手を知りつくそうとする、最もこの世で冷たい存在ね……」
 実際、この地龍が自分とは決定的に違うタイプだと言う事に確信を火乃香は持つ。相手が本質的に分からないからこそ、自分を隠して相手に好奇心で知り尽くす事が出来る最も危険なタイプ。
「だから、貴女はこれからもきっとそう言う事を一生に渡って続けるのよ。
肝心なものが見えないから、結局相手を知りたいなんて言うお門違いな錯覚を持って」
「……まあ、覚えておくとするよ」
 火乃香の薄い酷薄な笑みをじっと見た後、ダージリンは無言で立ち去ろうと踵を返して数歩歩く。そこでもう一度だけ振り向いて。
「ああ、そうそう。忘れていたけどさっき気付いた事なんだけど。
あの現場のドアに気になるものがあってね」
 火乃香は結局、それに対して口を挟むでもなく耳を傾ける。
 何だか、互いに手の内を尽くしてのカードゲームをしているような気分になって来たからだった。
「ドアのところに埃一斉に溜まってた。あれね、綿ぼこりて奴は空気が軽くなればなるほど動くでしょ。誰かあそこに入ってとにかく熱を持った灯りを使った可能性があるよ」
 誰か巨大な灯りを持って入りこんだのかも知れない。と、そう答えたらかなり決定的なアドバンテージを取られる質問だった。もちろん、彼女は炎の精霊を呼び寄せる者が入った可能性が高いなどとさり気なく迫ってくるだろう。
 ダージリンの後ろ姿が昇って行く陽炎の中でもくっきりと姿を保って遠ざかっていた。






「そう、結局出て行くのね」
 既に夏の終わりが近づいた事を物語るように、数日前までの陽気はほとんど影を顰めていた。
 旅行鞄を持った幼い闇龍は、火乃香の日傘の下で彼女をじっと見つめ、そして雲が月を隠した暗闇の中静かに離れて行く。
「貴女と過ごせた時間は、本当に楽しい時間だったわ」
 最後に手紙を受け取り、火乃香は別れの言葉もまた幻だったかのように街の外から羽堂邸に足を向け始めた。
「こんばんは、火乃香サン。こんな遅くに御散歩?」
 まったく反対の方向から声がする。最早確かめるまでもなかった。
暗がりの中からゆっくりと影はあの奇妙な地龍の姿になって行く。
「貴女の方こそ、どこまでも無粋な方ね。今度は何?」
「とりあえず、火乃香サンに報告だけはしとこうと思って。
あの詐欺師の龍サン、この街を今日出発したよ」
「あら?それは急ね」
「全くだよ。頭を打って意識が戻ったらすぐに強制的に街を出る事になるんだから。けどね、向こうはそんなに機嫌悪そうじゃなかったな」
 そう言ってダージリンは一瞬、苦笑いする。
「だったらきっと、どこかでまた何かをする気なのね」
 きっとそうなのだろうと思う。まあ、今回やった事は許せないが。
「だろうね、ボク達町に住む龍には想像もつかないような。
ああ、ところでボクは始めからから火乃香サンを怪しいって思ったんだ。
どこに行ったか分からないって言ってたあの闇龍が見つかった時、この辺にいて火乃香さんのあの薔薇いじったのかも知れないのに。
火乃香サンほど頭の切れるのが何も言わなかった」
「……」
「火乃香サンが雑貨屋でロープと滑車買ってた事をボクは確認したんだ」
「興味深いわね」
「隙を吐いて、気を失った相手をロープで一度空に吊りあげて炎の精霊で時間が来たらロープが焼けるようにして窓から落とす。
人間だったら絶対に嫌な手だって言いそうだね。
あの闇龍の少年がいなくなった間、火乃香サンも一時的に姿を見ていない」
「フェレスの証言を忘れたの?」
「フェレスサンが途中から見たのは日傘だけだよね?背丈が小さな者が日傘を持って歩いていくところ」
「私が、あの子にそれを持たせて、私の代わりに歩かせてフェレスを騙したとでも言うの?」
「そう考えると話は噛み合うんだよ」
ここで火乃香はため息を吐く。
「貴女みたいなのが居るのなら、これから少しだけ気を付けたほうが良さそうね」
「そう言って貰えるならボクとしても。それより、その手紙には一体なんて?ボクはそれが気になって」
「決まってるでしょう?」
 火乃香は手紙をダージリンの居る前で開いて見せる。
 本来なら、火乃香とあの少年の手紙としては見せられないのだったが何しろこれは夏の終わりに決まった事だ。
「エレさんのお陰で、救われた。これをいずれ真実にする事に。
ある詐欺師の署名」
 読み上げて、ダージリンは呆れたような顔をした。



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