例えば、この場で『私』とは一体何か。
……なんて命題を並べてみるとする。その問い掛けに対して一体どういう風に答えるかと言われてみて、恐らくまともに答える事は出来ないだろうな。と、乾は思う。
そのくらいにいい加減な人生を歩んできた訳だし、そのくらいにいい加減にやってきたツケがきちんとやって来た事に対してアンサーを出せないでいると。まあ、そういう理由だ。
それでも、最大限譲歩してそんな生き方をしてきた身分なりに真面目に考えて見るとするならば、多分その答えに近そうなところは積み重ねて来た『年月』でやってきた行動の数々だとは言えるだろうし、その過程として確実に付随物としてあるのが所謂『諦め』って奴なんだろうとは思う。
なりたい自分があった訳で……
なろうとした自分が潰えた訳で……
なれなかった自分が存在していて……
なり得なかった自分が具象化出来て……
「と。まあ、答えとしてはそんなところなんだろうね。俺に言わせれば」
黒いローブを羽織った黒髪の青年。朝色の町142番地で教皇を務めている乾はそうぼやくと黒いローブを羽織ったその肩を軽く竦めてみせた。
「それ、答えになってないですよ?乾サン」
かなり不機嫌そうな声が、乾のそのふざけた態度に対して突き刺すように返ってきた。
乾の向かい側には、乾と同じくらいの同じくらいの背丈の、まだ僅かにあどけなさを残す少年が、乾と向き合うようにして立っている。
「まったく。本当に身内以外にこんなふざけたイベントに付き合わされる事になるとは思いませんでしたよ」
そう言いながら、形の良い釣り目の琥珀色をした瞳の上の眉を今は訝しげに寄せ、少年は乾をジロリと睨みつけた。
銀色の短い髪が、冬を後数日に控えた乾いた風を受けて僅かに揺れる。
不機嫌そうな表情が少年の釣り目の瞳と相まって、やや尖った雰囲気になっている。
それでいて、少年のその佇まいにはどこかフォーマルな雰囲気が感じられる。
その少年。正確には人間の少年の姿をしたドラゴンである。
名前はメー。この朝色の町の126番地に居を構え、トレジャーハンターを生業としている少女、かなたのところで一緒に暮らす光龍メイベルドー種の使役龍だ。
そして、126番地に住む使役龍の中では最も古参の龍でもある。
「と言ってもなあ…何か至和子の奴がメー君とどうしても1日一緒に過ごしたい!と言い出した訳だし…」
乾はメーの気押されるように、そのどこか眠そうな瞳を軽く明後日の方向に逸らしながらバツの悪そうな表情を作った。
現在、メーと乾が対峙している場所は他でもなく朝色の町の境界線上。
この町に住んでいる住人及びその使役龍が、わざわざ自ら足を運ぶ用があるとするならば、それは精々2つに絞られてくる。
1つは許可書を何らかの形で入手して、町役場のに許可を貰って町の周辺にある遺跡やら塔やら研究所やらの、危険地帯に指定されている場所への探索目的。
そうでなければ、観光旅行か……
「……いや、こういう風に表現するとこの町を知らない人は『どう考えたって、1つ目の理由に比べてわざわざ目的に設定するまでもない、健全かつ平凡な理由じゃないか!』……って、そう思うんだろうなあ」
乾はそう言って、嘆息する。
「まあ、この町は他の国なら間違いなくあれば戦争起してる…って、くらいに想像の及ぶ限りの物は手に入る…らしいけど」
この町の近辺で生を受けたものはもちろん、この町に引っ越してきて1,2年も経つと凡そ『手に入らないものは無い!』と言う表現すら通り越して、まるで『想像の外にあった』と言う比喩で表わされるようなありとあらゆるアイテムが普通に町周辺の探索や町の専門店で入手可能だし、住み始めた者は、やがてそれを受取るだけで飽き足らず、自らそれらを扱い創り出すスキルを習得していく。
要するに、外にから何かを『輸入する』必要性が皆無であり、そもそもそれだけあらゆる物を自給自足可能な時点で、文化的な意味でも他所に観光する必要性など、この町の中での日常の範疇では存在する筈が無かったりする。
「それなのに……ってか、それでも尚俺をわざわざ呼び出して、一緒にこの町を抜けた先にある峠のところにあったお茶に付き合え……だなんて」
先ほど、乾の台詞に出た至和子と言う名前、それが乾の使役龍である闇龍シワコワトルであり、メーをこの場に指定して呼び出し、今現在進行形でマスターの乾をも付添い人にして待ちぼうけを喰わせている、元凶なのであった。
「普通に考えれば…デートとかかな?」
「そんな訳ねえだろ!!」
乾の発言に、メーは思わず普段自分の住処での地を出してツッコミを入れてしまった。
「ったく、なんでこんな事に……大体、この格好は何だよ?窮屈で仕方が無いっつーの!」
「?でも、前に何度かカフェで見せてもらった写真では、メー君も今よりももっと動きにくそうな格好を…」
「あの恰好は、利便性以前に風俗として前提が間違ってるっつーの!」
懲りもせず、2回もメーにツッコミを入れられる乾であった。
メーの不満は、要するに勝手に呼び出された事だけでは無く今為されている服装そのものの事でもあった。
ウィングカラー・ダブルカフスのプリーツシャツ 、オニキス等黒い飾り石のスタッドボタン 、シルクの白色のチーフでスリーピークス 、ボウタイは黒カマーバンドとサスペンダーもいずれも黒 。
エナメルのオペラパンプス。
要するに人間の男性がパーティーなどで女性をエスコートする為に着用する礼服……
所謂、『タキシード』と言う奴だ。
流石に、いきなり妙齢の女性に呼び出されて今の格好をさせられて、そのまま待っていろなどと言われては、むしろデートの誘いの可能性を否定する事そのものが難しいかも知れない。
何故こんな事になってしまっているのか……
本来なら朝の生まれる町の126番地と142番地。
それぞれに違う家に住む住人の使役龍同士がここに集う理由。
それは他でも無く、ある一言に端を発する一つの計画から始まったのだった
…
「みんなでやれば怖くない!って事で……是非、皆さんやりましょう!!」
それは、まさに鶴の一声だった。
朝色の町の一角につい最近1年ほど前に出来た、町の有志によって建設されたドラゴンズ・カフェと呼ばれる会員制の喫茶店での事。
ここで連日の如く立ち上げ時からのメンバー間で交わされる話題の中から生まれた一つのアイディア
『ほかの家の人を使おう』
町の住民同士の交流の活性化。もしくは、それぞれ専門職を受け持つ住人も多い中の経済循環……と言う大義名分は、もちろん最初から蚊帳の外であった。
ともかくイベントがあれば盛り上がる。そこからはトントン拍子に話が弾んだ
ルールは最低限のマナーとモラルさえあるなら、後は完全無礼講。
その場にいた、乾も早速帰宅してからそのままのテンション(普段からと言う説も濃厚だが)で、自らの使役龍に話したのだった。
中でも乾から開口一番に出た最初の『お題』に、強い関心を示した乾の使役龍がいたらしい。
「そうどすな。そういうお話なのどしたら、ぜひ私はかなたはんのトコのメー君といっぺん絡ませて欲しいと考えています。
ちょうどおぶでも一緒にしたいとずっと思っていましたし」
その翌日の話だった。乾の話を聞きつけたと言って黒い濃紺の派手な柄の分厚い布を幾重にも重ねた独自の衣装……振袖を纏った、長い黒髪の若い女性龍が『126番地のかなた宅のメーと一日を過ごしたい』と言う、予想外の注文を出してきたのは。
それから、話が決まってその場にいた126番地マスターであるかなたと、その使役龍達も提案を快諾して(その際に、同じく126番地の龍でありメーとは現在相思相愛の仲である磨智の耳元で何か囁いていた。
内容はメーの知るところでは無いが、メンバーの中でも発言力のあるかなたや磨智に対してのその際に至和子が提案してきた『ああ。それとメー君と一緒に一日を過ごす事になった場合、その際には是非とも彼の「タキシード」姿が見てみたいどすね』が決め手になったのであった。)
「それで…結局肝心の至和子サンは?あのヒト、自分から呼び出して置いて待たせているって、マジでやる気あんのか
大体、何だよお茶って。
あのヒトの事だからどうせ俺たちの知ってる軒先で軽く飲んでくようなものじゃなくて、やたらと細かい事をさせられる上に美味くもないお茶をほんのちょっとだけ飲まされるんじゃないだろうな!
ぶつくさ言いながらも、メーはどこかでこれがそもそも『一緒に付き合って』の発言自体が完全なネタで、ぶっちゃけ自分を適当にだましてからかうだけだと言う可能性を、どこかで願っていた。
今のメーには、大事な相手がいる。紆余曲折はあったが、それを超えて乗り越えた掛け替えの無い地龍リュコス種のあの少女。
だからこそ、今回のように真意はともかくとして当てつけのような真似を提案してきたあのシワコワトルの龍の事は、まあ嫌いでは無いのだけど、少なくとも不愉快とは感じている。
そもそも、至和子に対してのメーの持つイメージと言われれば、第一にあのいつも身に纏っている濃紺の絢爛な服装…
聞くところによると『振袖』と言う、ある異国の世界的には有名な民族衣装であるらしいが。
やたらと白い肌理の細かい肌に、対照的な切れ長の真紅の瞳をしていて、いつも真意を隠すようにしてそのこれまた肌とは対照的に紅い唇に含みのある笑いをいつも浮かべている。
笑顔ではあるが、どこか芝居じみた冷たい感じすら時にはする言ってしまえば、表情を感じない笑顔。
飄々としていて、その実真意のまるで読めない態度。
まあ、平たく言ってしまえば美人ではあるが得体のしれない女性と言うのがメーの至和子に対する印象であった。
「ったく、本当にただからかいたかっただけなんじゃないだろうな…あのヒトは、俺を」
「う〜ん…??着替えに忙しいとか何かなのかな?そう言えばあいつ昨日この日の為にわざわざ服を買い揃えていたみたいだし」
「忙しいって?あのヒト普段からあんな格好だろ?ったく、やっぱり俺をからかいたくってあんな事を言い出しただけなのかよ…嘘ならエイプリルフールにだけ付けっての!」
そう言いながら、不機嫌もいい加減頂点に達していたメーはタキシード姿のまま帰ろうと、踵を返そうとした。
(何を怒ることがあるんだよ?俺。
そう、あらゆる天変地異も想像を絶する現象も、この界隈に限っては日常に過ぎない事なのだ。
一時の気の迷いを何を躊躇う事がある。
これは長い時間の中で遭遇する、蜃気楼のような出来事なんだ。
この一日が終われば、改めて磨智にデートを申し込んで)
ヤキモキした気分のまま、来ていた路を引き返そうとしていたメーの向こう正面から、若い女性の弾んだ声が聴こえてきたのはその時だった。
「あ、ごめーん!!メー君待たせちゃった?」
明るく、そしてどこか涼やかな若い女性の声が高らかにメーの名前を呼ぶのが背後から聴こえた。。
反射的に、その場に居た男性2名であるメーと乾はその声の方向にを振り向いて……
「……」
「……」
そこに拡がっていたのは、果たして人外魔境の世界だったのだろうか?
メーの眼前で展開されている光景があまりに想像を超えている世界であった事を、メー自身が理解できた時に要した時間は恐らく
白いノースリーブシャツの上からも分かる、スタイルの良い体の上に羽織ったボア付きのコートの肩は、ここに辿り着くまでにかなりの無理をしてきた事を物語るかのように大きく上下している。丈の短いスカートから伸びている、すらりとした脚の膝から下を覆うレザーのロングブーツの両脚を一度ピタリと揃えると、呼吸を整えてから前屈していた漆黒の透けるようなロングの黒髪を後ろでアップした顔を上げ、ニッコリと満面の笑みを浮かべた。
白い顔に、不釣り合いなほどの赤い薄い唇に切れ長の赤い瞳をした人間換算20歳くらいの若い『お姉さん』だった。
「ほんっと……遅くなってごめん。私の方から誘っといたのに……って、えっと……メー君やっぱり怒ってる?」
「……」
いや、怒ってるとかそういう問題じゃねえ!
何がどうなっているのかは、当然思考の整理が追い付い付くべくも無かったが、それでもそのツッコミの文句だけはメーの脳裏に即座に浮かぶ事だけは感じた。
ツッコミたくても、一瞬で凍結した体の自由が中々戻らない。
「えっと、至和子……だよな?闇龍シワコワトル種の性格攻撃的の和服の京弁の性格極めて打算的の……」
混乱のあまりか、固有名から始まって何やら厄介な部分にまで踏み込んでしまった発言してしまった乾に、至和子(…だよね?)は近づくとその乾の来ている黒いローブの袖からはみ出ている手の甲を思いっきり抓った。
「っててて!!」
「乾君!人をまるで妖怪か何かのように言わないの!幾らなんでも、デリカシー無さすぎよ?」
乾君って……
呼び方を含め、その言葉使いまで自分の知る至和子の使うあの独特のイントネーションの言い回しまでもが、何気ないごく普通の大多数の町の住人や龍がスタンダードとする言葉づかいになっている。
「えーっと、至和子サン……一体ドウシチャッタンデスカ???」
ようやく口を伝って紡いぎ出せたその言葉は、恐らくイントネーションが一巡していた。
(今日は何の日だ?少なくとも、エイプリルフールじゃねえぞ?
さっきとは、当然別の意味で!!
いや、仮にそうだったとしてもここまでタチの悪い冗談は、大概の経験をしてきたつもりの俺でもあり得ねえ事だけは断言出来る!
何だこの目の前に現れたこの超常現象は!
悪いものでも食ってきたのか
俺が悪いものでも食ってしまったのか??)
「どうしたって…?…やーだー。今日はメー君と1日一緒に過ごす訳でしょ?
服を選ぶのに戸惑ってる内に、気づいてたら約束の時間に気づいた時にはすっかり遅刻しちゃってたって事で…
そしたら、着いた矢先に乾君が妖怪だなんて失礼な発言をしちゃうし。
えっと……でも、ごめんね。メー君」
(少なくとも、あんたの化けっぷりは別の意味で妖怪だ。
何なんだ?あんたつい先日までは、やたらと動きにくい時代と場所を間違えた格好によく分らん地方言葉がデフォだったんじゃねえのかよ??
何だ?キャラ変えするにしたって、限度ってもんがあるぞ?)
口には出せなかった。と言うよりも口に出して突っ込む行為そのものに凄まじい障壁を本能的に感じた。
とりあえず、目の前の女性は……
至和子に間違い無いようだ。
アップにして纏めてこそいれど、長い黒髪の艶に、白い肌。
表情が幾ら同一個体に見えなくても、あの切れ長の紅い瞳と細面の顔の造りは至和子そのものだろう。
「じゃ、行こうか!メー君。
峠の先に、美味しいお茶屋さんがあるの!」
固まるメーの肩をその、推定至和子は強引に掴んでそのまま道を駆けだして行く。
後に残された乾は抓られた事よりも、唯ひたすら未だに凍りついていた。
と、言うよりも抓られた事を乾は恐らく知覚していない。
何にせよ、こうしてメーと至和子は一緒に陽が暮れるまでを条件に、1日が事に始まったのだった。
「ねえ、メー君!!」
「…!エット…?ナンデスカ…?至和子…さん?」
完全にしどろもどろになりながらも、メーは残された機能しているありったけの理性を込めて至和子の質問に相槌を打つ。
至和子は、その屈託の無い笑みのまま弾んだ声で…
「『私』って、一体どういう意味なのか…メー君はその答えは何だと思ってる?」
「お待たせ致しました。それでは、ごゆっくりどうぞ」
白いテーブルの上に、鮮やかな紅い紅茶と肌理の細かいクリームの乗ったケーキを運んできたウェイターは一礼すると無駄の無い動作でそのまま持ち場に戻って行く。
南の空から眩しい日差しが降り注ぐ正午の陽気は、冬を目の前にした今の時期をも最も優しく照らし出している。
(『おぶ』つまり『お茶』を一緒に飲みたいって…オープンカフェで一緒に紅茶とケーキだったのかよ…)
あれから出立した朝から正午になるまでの時間を、至和子とメーは峠での散策及び買い物に費やした。
その間に、街道に生えている植物や鳥類に関する名前、習性、特徴、弊害、恩恵…
買い物の合間に見せる、至和子の知識と見識は感嘆させられる程だった。
もちろん、初めはやって来た時の至和子のあまりの変貌ぶり(?)に完全に思考を停止させられて、デートもどき(?)どころでは無かったメーも、時間が経つに連れて至和子の雑多な雑学と意外なトークの才に気分を解されて行き、しまいには途中の街道にある旅人が立ち寄る事を前提に作られた雑貨屋での買い物の折には、ついうっかり至和子の買ったもの以上の買い物をしてしまった程だった。
「美味しそうなケーキよね!メー君もこういうの好みなの?」
買い物で得た収穫を示す買い物袋の束を銘々傍に置き、運ばれてた来たケーキを目にした至和子はその紅い切れ長の瞳を輝かせながら、メーの双眸に視線を移す。
「俺は正直に言うと、磨智が作ってくれるケーキ以外はどれが美味しいかなんて全然分からねーんだけどな。」
メーは思わず苦笑しながら、その至和子の屈託の無い笑顔に苦笑いで笑顔を返して見せた。
「でも、正直びっくりしたよ、マジで。俺、至和子さんがあんなに雑学に詳しいとは思ってなかった。えっと、何だっけあの…ここに来る直前の樫の森に鳥がたくさん群がっていた時に言ってた…」
「鳥が大群を為して飛ぶ時の習性。ついでに…」
至和子は、上目伝いにその真紅の瞳を悪戯っぽく瞬きさせてメー言葉のその先を勝手に喋る。
「魚が群れを為す時、そこに魚の個人意思は存在していない。魚は唯、目の前にある同種の動くままに本能的に泳ぎ続けて一生を続ける」
「…」
「へへへ」
至和子の小ぶりな紅い唇から、ペロリと舌が見えた。
その至和子の態度に、何となくメーは視線をオープンカフェのすぐ横に見える大通りに逸らしてみた。
メーの表情が少しだけ固くなる。
街道の向こうには、数時間前に出立した故郷である朝色の町の町並みが見渡せる位置で一直線の街道の遥か先に、自分たちが普段居る朝色の町が遠く見える。
(故郷…ねえ)
もちろん、今メーと至和子がいるオープンカフェは朝色の町から遠く離れた場所では無い。
一般的な人間の、増してや徒歩と言う条件ならまだしもメーや至和子を始めとするドラゴンが龍の姿を取ったなら、精々人間時の姿で言う近場を散歩くらいの労力にもならない。
朝色の町に常備されてこそいないものの、より発展した科学技術の産物である電力なり化学燃料なりを使った特殊な乗り物(理論的には鉄の塊が空を飛ぶ事も可能だと言う。大多数のドラゴンに取っては、天馬が空を舞う話と同等の眉つば物の話だが)を使うったなら、メーや至和子のマスターでもある、かなたや乾のように身体能力的にはごく普通の人間でも特に大した苦もなくここまでの距離くらいは日常の行動半径の範疇として捉えられる筈だ。
(…)
そこに来て、ふと何かの考えにメーは思い当る。
「…私たち、随分いつもと違う場所に来ちゃったよね」
至和子もまた、そんなメーの心情に何か変化を感じたのか、メーの見つめる遠くを僅かに振り向いて、ほんの僅かだけ物憂げな調子になったかに見える。
「まあ、俺たちが本来の姿になったならら、散歩するような距離なんだけどね」
メーは、それが普通だと受け止めている。
恐らく、目の前の至和子だってそうだ。
だって、自分たち使役龍はそれが自分だから。正確には、そうなるように自らの生き方を定めたから。
マスターと出会い、マスターを慕い、一緒に暮らすようになって。
「……ねえ、至和子サン」
ちょっと真顔になって、メーは細工物のように綿密な造形を施されたケーキと紅茶をを隔てて至和子の顔を向きなおす。
「どうしたの?メー君。妙に真剣な顔になって。何でもいいけど、お茶飲まないと冷めちゃうよ?」
至和子はいつの間にかテーブルに肘を立てて、頬杖を付いたまま悪戯っぽく微笑んでいる。
そして、今自分が発した発言とは裏腹に至和子自身注文した透き通る真紅の紅茶と細工物のように作られたケーキに全く手をつけていない。
「何故、今日はわざわざ俺を呼び出したりしたんだよ?」
至和子は、今日朝出会ってからの明るいの表情のまま無言でメーの視線に対して無言で微笑んでいる。
その表情に変化の兆しは見られない。唯その紅い瞳に年相応の女の子の浮かべる笑顔を浮かべたまま。
唯、悠然としている。
朝色の町で見た時の記憶の中にある、あのどこか真意を隠しているような、誰にも本当の素顔を見せないまま、ミステリアスに笑っていたあの雰囲気こそが偽物であったかのように。
「メー君は、私の事を言一番よく知らないでいてくれる相手の1人だったから…かな?」
その響きの不自然さに、一体どういう意味が含まれていたのか、本来なら理解できるかどうかも怪しいレベルだったろうし、恐らく普段の朝色の町で至和子が同じ言葉を言っても、恐らくは聞き流してしまっていただろう。
「それって、どういう意味?俺は至和子サンの事は確かによく知ってる訳じゃないけど、少なくとも…」
「少なくとも…?」
至和子はさっきまでと何ら変わらない。その軽く上目伝いにメー線を覗き込むように見つめたまま微笑んでいた紅い唇を大きく緩めて、ニッコリと笑う。
「ひねくれてはいるんだろうけど、根っこの部分では凄くいい人だと思ってるよ」
「ふーん…」
至和子の表情には、まるで変化が無い。ただひたすら友人の何気ない冗談でも聞いているかのような、砕けた態度。
「ねえ、至和子サンが今日ここに俺と一緒に付き合ってって言い出したの…」
「私が話を振った理由?」
メーは、神妙な面持ちでいた表情を和らげて、また苦笑いに戻る。
今度の苦笑いは、『趣味が悪いよ』とでも言いたげな苦笑い。
「俺をいつもと違う場所に連れ出して…そして『自分なんて誰だって自分じゃ分からないもの』って事を伝えたかったんじゃないかな?
違う?」
メーは苦笑いのまま、ちょっとだけその切れ長の瞳を悪戯っぽく、ゲームに勝った時のように目配せした。
「だって、俺がここに来るまでに立ち寄った街道。確かに通ったことは無かったけれど、そこ至和子サンが教えてくれた知識って、ほとんど俺が知らなかったような物ばかりだ。
多分、知らなきゃ俺はこれからもずっと、ここら辺に興味を持たずに朝色の町か、後は精々マスター達の居た場所にだけしか関心無かった。
今しがた話にだした魚の群れみたいに」
「考えすぎじゃないの?何言ってるの?メー君変だよ?」
至和子は驚いたように、わざとらしく焦ったような困惑したような雰囲気で、それでも笑った表情のまま手を大きく振って、『勘弁してよ』と言わんばかりのジェスチャーを作る。
「確かに考えすぎかもしれねーけど。
でも、これだけは最後に聞いてもいい?
もう、これでこんな変な話は終わりにするよ。
至和子サンのその…いつもと全然雰囲気違ってる格好と性格」
メーは緩みかけた表情を、僅かに引き締めて釣り目の瞳で至和子に言う。
「今の至和子さんが…実は元々の至和子サンがなりたかった姿とか…
違うかな?」
ちょっとだけ、オープンカフェの空気が止まった気がした。
一刹那、無言の時が過ぎて行って…
「嘘?まさかメー君って、今日の私のような恰好が好みなの?」
至和子は大きく開けた口に手を軽く添えながら、あははと屈託なく笑う。
そして、紅茶を口に含んだ。真紅の透き通る紅玉のような液体の入ったカップをその形のいい紅い唇に寄せて。
まるで、裏表の感じられない雰囲気。多分、これが例え大体のどこの国でも若い女性が本来行うであろう、自然な仕草。
(素直に…生きろよ…なあ)
と、メーは心の中ではっきりと声に出ない言葉を呟いた。何となく、確信に近いものがあったから。
そしてその嘘だと妙に確信した至和子の態度に不快感は全く感じなかったし、怒るもは全く無かった。少なくとも、とりあえず今この時は。
脳裏にその時、そう遠くない過去の地龍の少女の姿とその親友の炎龍と、そして自分のマスターの姿が僅かに浮かんだ気がした。
そんなメーを見て、至和子はカップ越しに見える真紅の目線で見て、その白い肌のでを心底無邪気ににっこりと笑っている。
メーは、至和子の飲んでいるように真紅の紅茶の入ったカップを手に取る。
きついくらいのハーブと、過剰なくらいの甘く味付けされた紅茶は不思議と美味しいと感じた。
メーは、もう少しの間は続くこの時間を楽しもうと思った。