一階の食堂でたらふくご飯をいただいて、アプエゲは111番地の居住区域の階段をリズミカルに駆け上る。
 階段を上ってすぐ目の前にある扉の前に立ち、「こんにちは!」と元気に挨拶しながらコンコンとノックする。数秒待って、アプエゲはちょいっと首を傾げた。
 いつもならノックの直後に部屋の主の「どうぞ」という声が返って来るのに、階下のお店の方から聞こえてくる食器が鳴る音やと談笑の声しか彼の耳には届いていなかった。

「……あれぇ……?」

 確か今日来ると、前回ここに来た時に言ったはずなのだけれど……忘れられてしまったのだろうか?
 残念な気持ちとこれからどうすれば良いのだろうという戸惑いで彼がドアの前で腕を組みながら唸っていると、左手側から扉の開く音がした。

「え、誰、って、あ、イソレナさんとこのアプエゲ君だっけ?」

 部屋から出てきたのは、光が当たると赤っぽく見える黒い髪をツンツンにとがらせた少年だった。アプクピは直接会話した事はないが、お店で時々料理を運んでいる姿を目にしていたりしていたので一応誰なのかは知っていた。

「こんにちは! えっと、あかりちゃんさん!」
「おしい、いや正解みたいなもんだけど。灯磨だよ、よろしくね。で、どうしたの? 風姉さんに用があるんでしょ?」

 親しみを感じる笑顔で話しかけてくる灯磨に、アプエゲは困り顔で口を開いた。

「えっと、そうなんだけど、返事がなくって……」
「あぁー……最近そういうのが増えたんだよねぇ、寝不足なのかなぁ」

 少し眉をしかめた灯磨はアプエゲの前まで歩いて来て、エゲリアの部屋のドアノブに手を掛けた。あっさり開いたドアと、あまりに自然にドアを開けた灯磨にアプエゲは目を丸くした。

「は、入っちゃっていいの!?」
「うん、多分大丈夫だよー」
「ええええぇ」

 怒ると怖いらしいエゲリアにまだ怒られた事がないアプエゲはスタスタ入っていく灯磨の返事に不安を捨てきれなかった。しかし、いつまでも廊下につっ立っているのもそれはそれで不安だったので、躊躇いながらも部屋に入ることにした。
 部屋の中に入ると、部屋の隅に追いやられているベッドに横になっているエゲリアが目に入った。彼女はベッドに腰かけたまま身体を横に倒した格好をしており、手元には本が開かれたままであった。

「眠ってる……?」
「やっぱりかぁ……起こせるかなぁ……」
「普通に声掛けても起きないの?」
「うん、ちょっと見てて」

 そう言って灯磨はアプエゲに、もう少しドアの方へ離れて耳を押さえるように言った。アプエゲが言われた通りにしているのをちゃんと確認してから、灯磨は思い切り息を吸い込んで、

「かぁーぜぇーねぇーえぇーさああぁぁあああん!!!」

 エゲリアの頭上で絶叫した。
 しっかり耳を押さえた上である程度距離をとっていたアプエゲだったが、あまり大音量にびくりと肩を震わせた。
 しかしエゲリアはそれでようやくゆっくりと目を開けて、鬱陶しそうに視線だけ灯磨の顔に向けて、ゆっくりと口を開いた。

「……やかましぃ……」

 そう呟いたきり、彼女はまた目を閉じてしまった。その様子にアプエゲは目を丸くし、灯磨は残念そうに溜息を吐いた。

「あー……やっぱりオレじゃダメかぁ……」
「……ここまでされて起きない人って、初めて見たかも……」
「あはは、そうだろうねぇ」

 ここまで煩くされても激昂しないエゲリアを見る機会もそう無いだろう。
 灯磨は呻きながら、ワックスで整えた髪を少しだけかき混ぜた。

「ちょっと主人さん呼んでくるよ。アプエゲ君はちょっとここで待っててね」
「う、うん、わかった……」

 灯磨は早足で部屋を横切って、階下へ向かって行った。足音が遠ざかるのを聞きながら、アプエゲはすっかり寝入っているエゲリアの横顔を見ていた。さっき一瞬起き上がっていたのは幻だったみたいに眠っている。今までもこれからもずっと眠り続けているみたいだった。

「(いばらのお城のお姫様も、こんな風に眠ってたのかな?)」

 髪の長さ的にはむしろラプンツェルじゃないの? とツッコミを入れるものはこの場にはいなかった。



 とんとんと階段を上って来る足音が聞こえたので、アプエゲは振り返ってドアの方を見た。

「アプエゲ君こんにちはー」
「朱音お姉さん! こんにちはっ!」

 姿を見せたのは、ティーセットと粉砂糖に覆われたケーキが幾つも乗った皿を大きめのお盆に載せたこの家の女主人だった。

「お客さんなのに待ちぼうけさせちゃってすみませんですー。お詫びと言うのもアレですがシュトーレンいかがですか?」
「わあっ! 美味しそう〜」
「ちょっとこの前の聖夜祭に作り過ぎたのが余ってしまいまして。長持ちするので保存は問題ないのですが、処理する方が大変でして。是非手伝って下さいな」
「うん、いただきますっ!」

 20cmくらいの大きさのそのまま丸かじり(に近い丸のみを)しているアプエゲの横を通り過ぎて、朱音はエゲリアの前で立ち止まった。二人やり取りの声も届かずに寝息を立てているエゲリアを見下ろして、朱音は苦笑した。

「本当に見事に寝ちゃってますねぇ」
「さっき、とうまお兄さんが言ってたんだけど、やっぱりあんまり寝てないのかな……?」
「どうでしょうねぇ……まぁ、多少は無理してるのかもしれませんね」
「むぅ……だったら今日は別に……このまま寝かせてあげて?」
「いやー、起こさなかったら間違いなく怒られてしまいますのでねぇ」

 朱音は苦笑しながら、指を絡め合うようにエゲリアの手を握った。そして、少し間延びした眠気を誘いそうな声音で声を掛けた。

「エゲリアー、起きなさーい、お客様ですよー」
「……ん……ぇ……お客――!?」

 勢いよく起き上がったエゲリアは、目の前の朱音を通り越して真っ直ぐにアプエゲを見ていた。起き上がった反動で手元の本をベッドから落としてしまった事にも気付いていないらしい。色の白いエゲリアが青ざめると、下手な人形よりもそれっぽいなと、握った手を離した朱音はニヨニヨ笑いをこらえながらその様子を眺めていた。

「……アプエゲ、殿?」
「! こ、こんにちはっ」
「あ、じゃあ私下にいるからねぇー」
「え、ちょっ、マスター殿!?」

 ひらひらと手を振りながら縋ろうとするエゲリアの手をかわして朱音はさっさと部屋を出てしまった。そのテンションの軽さに、か細く声にならない悲鳴を上げていたエゲリアだが、部屋に残されたままのアプエゲの視線にハッとして、おもむろに彼の方を見た。いつも大人びて静かな横顔が、どこか怯えてるように見えた。

「……あの、いつからここに……」
「えっと……お昼すぎくらいに……あ、あの、ごめんなさい、勝手に入っちゃって……」

 正確には勝手に入った灯磨に付いて来たのだが、一応謝っておくべきだとアプエゲがぺこりと頭を下げようとすると、

「いいえ」

 下がりかけた両肩をグッと押し上げられた。アプエゲの目の前で、あっという間に距離を縮めてきたエゲリアの豊かな深緑の髪が波打って、アプエゲの脳裏にワカメスープがよぎったが、先程食べたシュトーレンのおかげで腹が鳴るまでには至らなかった。
 顔を伏せていたエゲリアはゆっくりと面を上げた。エゲリアは大人だが小柄なので、二人が並んでも視線の高さに、そう差はなかった。

「貴方は悪くありません……約束を忘れて寝入ってしまって、すみませんでした」
「ううん! 僕だって、眠い時は寝ちゃうもん。エゲリアお姉さんだってそうだったんでしょ?」
「あー、まぁ……確かに、そうですけど……」
「だからさ、今日は僕帰るから、代わりにゆっくり休んで――」
「今更この状況で眠れませんよ」

 エゲリアは溜息を吐きながら、朱音が置いて行ったティーセットを使って紅茶を入れ始めた。若干手付きが荒いのは多分アプエゲの気のせいではない。

「(割っちゃいそう……)」

 アプエゲの心配を余所に、エゲリアは無事に紅茶を淹れ終えて、ソーサーに乗せたティーカップを一つアプエゲに渡した。

「ティーカップごと飲まないで下さいね」

 手渡されると同時に告げられた言葉に従って、アプエゲは礼儀正しく紅茶を飲んだ。(と言っても、ほぼ一口で全部飲み干しただのだが。)
 アプエゲが何度かお代わりをする前で、エゲリアはその二分後に最初の一杯目を飲み干した。その間、二人の間には少しの雑談を交えた少々気まずい沈黙が流れていた。

「……さて、今日はどんな話を読みたいのです?」
「え? あぁっと……この前読んだ棚の本がまだ残ってたから、そこにしようかな、って」
「そうですか」

 ここでようやくエゲリアは薄く笑みを浮かべたので、アプエゲはちょっと安心した。薄い笑みは数秒の内に消えて、エゲリアは少しだけ居住まいを正してアプエゲに告げた。

「アプエゲ殿、この際ですので改めて言っておきます」
「は、はいっ」
「今後は別に約束せずとも、この部屋を使いに来て構いませんよ。入る際に一声かけて頂ければ充分です」
「……えっ!?」

 アプエゲが目を丸くすると、エゲリアは軽く瞑目して肩を竦めた。

「嫌なら別に良いですけど」
「い、いやとかそういうんじゃなくて、びっくりして……」
「理由が知りたい、と」

 ふむ、とエゲリアは口元に手を当てた。言うべきかどうかを思案しているように見えたので、アプエゲはとりあえず大人しく待ってみることにした。
 彼女が結論を出すのにそんなに時間はかからなかった。エゲリアはぽつりと呟いた。

「私が居なくなっても、誰かがこの部屋を使い続けたくなるように、とか」



 図書館本来の静けさが部屋を満たしていた。目をぱちくりさせているアプエゲの呆けた表情を見て、エゲリアはふぅ、と溜息を吐いた。

「冗談です」

 さらりと言ったエゲリアは、いつも通りのすっぱり感情が抜け落ちた様な無表情で言葉を続けた。

「まぁ実際、この部屋の本達も、色々な人に使われた方が本望でしょうから。私が眠りこけていても勝手に使って下さいというだけの事です」
「……エゲリアお姉さんがそれが良いなら、分かりましたっ。そうします!」

 元気の良い返事に、エゲリアは満足そうに口元を吊り上げた。

「なら、早速使ってあげて下さいな」
「はーい!」

 目当ての本棚の元へと足を向けるアプエゲの背中を、エゲリアはまた重くなってきた瞼を気合いで開けて見送った。



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